用意ですが、その頃は今のようにボール紙がありませんので、お母様が屑屋《くずや》に頼んで反古紙《ほごがみ》を沢山に買って合わせ紙というのをお作りになるのでしたが、それが又大変で、秋日のさすお庭から畠から、お縁側まで一パイに干してあることがよくありました。そんな時にお父様は、その頃まであった緡《さし》につないだお金をお座敷に並べたり、又緡につなぎ直したりなさりながら、
「せめてその加勢でも俺に出来るとナア」
 とよく云われました。お父様の手は畠仕事で荒れておりますので、糊《のり》の付いた紙をお扱いになるとじきに引っかかったり、まつわり付いたりして、お母様がお一人でなさるよりも却《かえ》って手間取るのでした。
 私もお母様のお忙がしさを見るにつけて、お手伝いをして差し上げたいのは山々でしたが、どうしたわけか同じ指を持ちながら、お母様のような縫い針やお洗濯が一つも出来ず、ただ、字を書く事と、お琴を弾くことが人並外れて好きなだけでした。そうして毎日川向うの賑やかな川端筋にあるお琴の先生の処へ学校の帰りにお稽古に寄るのでしたが、そのお復習《さらい》をうちへ帰って、お父様とお母様の前でするのが又、何よりも楽しみで御座いました。お二人とも私を喰べてしまいたいほど可愛がっておいでになりましたので、私が弾くたんびにお褒《ほ》めになっては、いろいろなお菓子を御褒美に下さるのでした。
「コヤツ(福岡の人は吾が児のことをよくこんなに申します)は俺のお祖母様の血すじを引いとるらしい。今にあの阿古屋のように琴が上手になるじゃろう。弾く手つきまでがあの押絵の通りじゃ」
 とお父様がよく仰有いました。
 けれども不思議なことに、お父様のそのような事を仰有るたんびに、お母様は、はかばかしく御返事をなさいませんでした。只「エエ」とか「ハア」とか弱々しい返事をなすって、あの淋しいような悲しいような微笑をなされながら、針や絵筆を動かしておいでになるのでした。時々は眼の中に涙を溜めておいでになる事さえありました。
 けれどもお父様はそんな事を一度もお気付きになりませんでしたようです。ただ私だけがとっくに気が付いておりまして、子供心にいつかはお母様にお尋ねしてみようみようと思いながらツイそのままになってしまいました。
 そのうちに私は十二歳の春を迎えました。お父様が三十八で、お母様が二十九におなりになりましたが
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