が、姦通の事実なくして生るる事あるはこの道理に依るもの也――
 というに在り。故に、吾国の過去に於ける幾多の裁判が、その当時の最も有力なる学理学説によりて決定せられし先例に依る時は、この訴訟も亦《また》、この説を真理と認めて断定せらるべきものなる事を、余は断乎として主張し得るもの也。すなわちこの事件は、前述の如き心理状態に在りて、結婚を忌避しつつありしアリナ嬢を、従男爵が追求して謝絶の辞に窮せしめ、強いて同棲を承諾せしめしより起りしものにして、この婦人のこの画像に対する精神的の貞操を破らしめし罪は寧《むし》ろ従男爵側に在りと云うべし。アリナ嬢は、何事も云う能《あた》わずして嫁《か》し、何事も云う能わずして死せり。その貞操の高潔なる、その性情の純美なる、これをして疑うべくんば、天下いずれのところにか正義を求めん。これをしも同情せずんば、地上いずれのところにか人道を認めん」
 と涙を揮《ふる》って痛論せしかば、満場|寂《せき》として云うところを知らず。唯、証人席に在りしアリナの実父母が歔欷《きょき》するあるのみ。遂にこの訴訟は従男爵コンラド氏の敗訴となり、アリナの霊と、従男爵の血によりて生まれたる孩児《がいじ》の扶助料、及び、その実父に対する慰藉料として巨額の財産を分与して結着を見たりとなり。
 これを以《もっ》てこれを見れば、古来貞操に関する疑《うたがい》を受けて弁疏《べんそ》する能《あた》わず、冤枉《えんおう》に死せし婦人の中にはかかる類例なしというべからず。且《か》つ、この判例と学説とを真理と認めて類推する時は、男子にても曾て恋着し、もしくは記憶せる女性に似たる児《こ》を、現在の配偶に生ましむる事が、あり得べき道理となり来《きた》るを以て、場合によりては男女間に於ける精神的の貞操の有無をも、形而下の諸現象、譬《たと》えばその児に現われたる特徴等によりて、具体的に証明され得るに到るべく従って、法律上に於ける貞操の字義が現在よりも遥かに狭少厳密となり、道徳上より見たる貞操の意義と一糸相容れざるに到ると同時に、一方には這般の学理を逆利悪用する姦通の隠蔽事実が、陸続《りくぞく》として現出する時代の近き将来に於て来り得べきことも、予想するに難《かた》からざる事となるべし。
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◇訳者曰く=以上を要するに、生物界に於ける霊意識の作用の玄怪不可思議にして現代
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