に在る「鷹が宿」という由緒ある家柄に生れしアリナ(仮名)と呼べる若き女性を夫人として迎えけるが、この女性は元来絶世の美人なりしにも拘わらず、何故《なにゆえ》か八方より申込み来る婚約を悉く謝絶しおり。尼となりて修道院に入らむと、志しおりしものなりしを、八方より手を尽して、辛うじて貰い受けしものなりければ、従男爵の満悦|譬《たと》うべくもあらず。身方《みかた》の親戚知友はもとより新夫人の両親骨肉|及《および》「鷹の宿」の隣家に住める医師、兼、弁護士の免状所有者にして、篤学《とくがく》の聞え高きランドルフ・タリスマン氏迄も招待して、盛大なる華燭の典を挙げ、附近住民をして羨望渇仰の眼を瞠《みは》らしめぬ。
 さる程にアリナ新夫人はやがて、従男爵の胤《たね》を宿しつ。月満ちて玉の如き男子を生み落しけるが、その児《こ》の顔貌一眼見るより従男爵の面色は忽然《こつぜん》として一変し、声を荒らげて云いけるよう。
「吾家には代々|斯《かく》の如き漆黒の毛髪を有せるもの一人も生れたる事なし。又汝が家の系統にもさる者なきは人の知るところにして、汝を吾が妻として迎えたる理由も亦、その点に懸って存するを知らざりしか。察するところ汝は、何人《なんぴと》か黒髪を有する男子と密通してこの子を宿せしものに相違なし。余は斯《かく》の如き児を吾が家の後嗣として披露する能《あた》わず、疾《と》く疾くこの児を抱きて親里に立ち去れ。而《しか》して余の責罰の如何に寛大なるかを思い知れ」
 とぞ罵《ののし》りける。然るにこれに対してアリナ夫人は不思議にも一言の弁解をも試みんとせず。その夜《よ》深く件《くだん》の黒髪の孩児《がいじ》を抱きて秘かに産室をよろぼい出《い》で、跣足《はだし》のまま数|哩《マイル》を歩行して、翌日の正午親里に帰り着きしが、家人の隙《すき》を窺いて玄関横の応接間に入り、その正面に掲げある黒髪の美青年の肖像画の前に来り、石甃《いしだたみ》の上にたおれ伏したるまま息|絶《た》えぬ。程経《ほどへ》てこれを発見せし実父母は驚駭《きょうがい》措《お》くところを識《し》らず。直ちに隣家のタリスマン氏を迎え来り、水よ薬よと立ち騒ぎけれどもその甲斐《かい》なく、唯、黒髪の孩児のみが乳を呼びつつ生き残りけるこそ哀れの中のあわれなりしか。
 その後、この事件は訴訟問題となり、アリナ夫人の実父とコンラド従男爵とは法
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