楯《こだて》に取るかのように、ピッタリと身体《からだ》を寄せかけて突っ立った。電燈の光りをまともに浴びながら、切れ目の長い近眼を釣り上らして、瞬きもせずに私の顔を睨み付けた。
 その真正面《まっしょうめん》から私は爆発するように怒鳴り付けた。
「犯人は貴様だ……キ……貴様こそ天才なんだゾッ……」
 副院長の身体《からだ》がギクリと強直した。その顔色が見る見る紙のように白くなって来た。扉《ドア》のノッブに縋《すが》ったままガタガタとふるえ出していることが、その縞《しま》のズボンを伝わる膝のわななきでわかった。
 こうした急激の打撃の効果を、眼の前に見た私はイヨイヨ勢を得た。
 その副院長の鼻の先に拳固《げんこ》を突き付けたまま、片膝でジリジリと前の方へニジリ出した。
 ……と同時に洪水のように迸《ほとばし》り出る罵倒《ばとう》の言葉が、口の中で戸惑いし初めた。
「……キ……貴様こそ天才なのだ。天才も天才……催眠術の天才なのだ。貴様は俺をカリガリ博士の眠り男みたいに使いまわして、コンナ酷《むご》たらしい仕事をさせたんだ。そうして俺のする事を一々蔭から見届けて、美味《うま》い汁だけを自分で吸おうと巧《たく》らんだのだ。……キット……キットそうに違い無いのだ。さもなければ……俺の知らない事まで、どうして知っているんだッ……」
「……………」
「……そうだ。キットそうに違い無いんだ。貴様は……貴様は昨日《きのう》の正午《ひる》過ぎに、俺がタッタ一人で午睡《ひるね》している処へ忍び込んで来て、俺に何かしら暗示を与えたのだ……否《いや》……そうじゃない……その前に俺を診察しに来た時から、何かの方法で暗示を与えて……俺の心理状態を思い通りに変化させて、こんな事件を起すように仕向けたのだ。そうだ……それに違い無いのだ」
「……………」
 ……バタリ……と床の上に何か落ちる音がした。それは副院長の手から、床の上の暗がりに辷り落ちた、茶革の懐中《かみいれ》の音に相違無かった。
 しかし私はその方向には眼もくれなかった。のみならず、その音を聞くと同時にイヨイヨ自分の無罪を確信しつつ、メチャクチャに相手をタタキ付けてしまおうと焦燥《いらだ》った。
「……そうなんだ。それに違い無いのだ。俺に散歩を許したのは誰でもない貴様なんだ。標本室の扉《ドア》の鍵をコッソリと開《あ》けておいたのも貴様だろう、クロロフォルムの瓶をあすこに置いたのも貴様かも知れない。……男爵未亡人を凌辱《りょうじょく》したのも貴様に違い無い。そうして残虐を逞《たく》ましくして茶革の懐中《かみいれ》を奪って、俺の処へ……イヤ……イヤ……そうじゃない。そうじゃないんだ。……俺は決して嘘は云わない。俺は今夜偶然に夢中遊行を起したのだ。そうしてあの室《へや》に行って、四人の女を麻酔さして、未亡人の繃帯と帯とを切ったに違い無いのだ。けれども、それ以上の事は何もしていなかった……それ以上犯罪に属する仕事は……みんな貴様がした事なんだ。宿直員の話でも、その宝石に残っている俺の指紋の一件でも、ミンナ貴様の出まかせの嘘ッパチなんだ。貴様はただ偶然に、昨日《きのう》の昼間、標本室に這入って行く俺の姿を見付けたに過ぎないんだ。それから今夜も、歌原未亡人の容態を監視するつもりか何かで、この病院に居残っているうちに、又も偶然に、俺の夢中遊行を見付けたので、あとからクッ付いて来て様子を見届けているうちに思い付いて、スッカリ計画を立ててしまったのだ。そうして俺が出て行ったあとでソノ計画通りにヤッツケて、一切の罪を俺に投げかけて、俺の口を閉《ふさ》ごうという巧《たく》らみの下《もと》に、わざわざこの室《へや》まで押しかけて来て……イヤッ……ソ……そうじゃないんだッ……。そ……そんな事じゃないんだッ……」
 私は突然に素晴らしいインスピレーションに打たれたので、片膝を叩《たた》いて飛び上った。
 私は私自身が徹底的に絶対無限に潔白である事を、遺憾《いかん》なく証明し得るであろう、そのインスピレーションを眼の前に、凝視したまま、躍り上らむばかりに喚《わ》めき続けた。
「……オ……俺は何にもしていないんだ。昨日《きのう》の夕方からこの室《へや》を出ないんだぞッ……チ畜生ッ……コ……この手拭は貴様が濡らしたんだ。その茶革のサックも貴様が持って来たんだ。そうして貴様はやっぱり催眠術の大家なんだッ」
「……………」
「俺はこの事件と……ゼ絶対に無関係なんだ……。俺は貴様の巧妙な暗示にかかって、昨日《きのう》の午後から今までの間、この寝台の上で眠り続けていたんだ。そうして貴様から暗示された通りの夢を見続けていたんだ。夢遊病者が自分で知らない間《ま》に物を盗んだり、人を殺したりするという実例を貴様から話して聞かせられた……その通りの事を自分で実行している夢を見続けていたのだ。そうして丁度いい加減のところで貴様から眼を醒まさせられたのだ……それだけなんだ。タッタそれだけの事なんだ……」
「……………」
「しかも、そのタッタそれだけの事で、俺は貴様の身代りになりかけていたんだぞ。貴様がした通りの事を、自分でしたように思い込ませられて、貴様の一生涯の悪名《おめい》を背負い込ませられて、地獄のドン底に落ち込ませられかけていたんだぞ。罪も報《むく》いも無いまんまに……本当は何もしないまんまに……エエッ。畜生ッ……」
 私の眼が涙で一パイになって、相手の顔が見えなくなった。けれども構わずに私は怒鳴り続けた。
「……ええっ……知らなかった……知らなかった。俺は馬鹿だった。馬鹿だった。貴様が俺に夢遊病の話をして聞かせた言葉のうちに、こんなにまで巧妙な暗示が含まれていようとは、今の今まで気が付かなかった。エエッ……この悪魔……外道《げどう》ッ……」
 私はここ迄云いさすと堪《た》まらなくなって、片手で涙を払い除《の》けた。
 そうして、なおも、相手を罵倒すべく、カッと眼を剥《む》き出したが……そのままパチパチと瞬《まばた》きをして、唾液をグッと呑み込んだ。呆れ返ったように自分の眼の前を見た。
 いつの間に取り上げたものか、私の松葉杖の片ッ方が、副院長のクシャクシャになった髪毛《かみのけ》の上に振り翳《かざ》されている。二股になった撞木《しゅもく》の方が上になって、両手で握り締められたままワナワナと震えている。……その下に、全く形相の変った相手の顔があった。……放神したようにダラリと開いた唇、真赤に血走ったまま剥《む》き出された両眼、放散した瞳孔、片跛《かたびっこ》に釣り上った眉。額の中央にうねうねと這い出した青すじ……悪魔の表情……外道の仮面……。
 その上に振り上げられた松葉杖のわななきが、次第次第に細かい戦慄にかわって行った。今にも私の頭の上に打ち下されそうに、みるみる緊張した静止に近づいて行くのを私は見た。
 私はその杖の頭を見上げながら、寝床の上をジリジリと後《あと》しざって行った。片手をうしろに支えて、片手を松葉杖の方向にさし上げながら、大きな声を出しかけた。
「助けて下さア――イ」
 ……と……。けれどもその声は不思議にも、まだ声にならないうちに、大きな、マン丸い固りになって、咽喉《のど》の奥の方に閊《つか》えてしまった。
 ……何秒か……何世紀かわからぬ無限の時空が、一パイに見開いている私の眼の前を流れて行った。
 ………………………………………………。

「……お兄さま……お兄様、お兄様……オニイサマってばよ……お起きなさいってばよ……」
 ………………………………………………。
 ……私はガバと跳《は》ね起きた。……そこいらを見まわしたが、ただ無暗《むやみ》に眩《まぶ》しくて、ボ――ッと霞んでいるばかりで何も見えない。その眼のふちを何遍も何遍も拳固《げんこ》でコスリまわしたが、擦《こす》ればこする程ボ――ッとなって行った。
 その肩をうしろから優しい女の手がゆすぶった。
「お兄様ってば……あたしですよ。美代子ですよ。ホホホホホ。モウ九時過ぎですよ。……シッカリなさいったら。ホホホホホホ」
「……………」
「お兄様は昨夜《ゆうべ》の出来ごと御存じなの……」
「……………」
「……まあ呆れた。何て寝呆助《ねぼすけ》でしょう。モウ号外まで出ているのに……オンナジ処に居ながら御存じないなんて……」
「……………」
「……あのねお兄様。あのお向いの特等室で、歌原男爵の奥さんが殺されなすったのよ。胸のまん中を鋭い刃物で突き刺されてね。その胸の周囲《まわり》に宝石やお金が撒き散らしてあったんですって……おまけに傍《そば》に寝ていた女の人達はみんな麻酔をかけられていたので、誰も犯人の顔を見たものが居ないんですってさ」
「……………」
「……ちょうど院長さんは御病気だし、副院長さんは昨夜《ゆうべ》から、稲毛の結核患者の処へ往診に行って、夜通し介抱していなすった留守中の事なので、大変な騒ぎだったんですってさあ。犯人はまだ捕《つか》まらないけど、歌原の奥さんを怨《うら》んでいる男の人は随分多いから、キットその中《うち》の誰かがした事に違い無いって書いてあるのよ。妾《わたし》その号外を見てビックリして飛んで来たの……」
 妹の声が次第に怖《おび》えた調子に変って来た。
 するとその向うからモウ一つ大きな、濁《にご》った声が重なり合って来た。
「アハハハハハハ。新東さん。今帰りましたよ。あっしも号外を見て飛んで帰ったんです。ヒョットしたら貴方じゃあるめえかと思ってね、アハハハハハ。イヤもう表の方は大変な騒ぎです。そうしたら丁度玄関の処でお妹さんと御一緒になりましてね……ヘヘヘヘ……これはお土産ですよ。約束の紅梅焼です。お眼ざましにお二人でお上んなさい」
「……アラマア……どうも済みません。お兄さまってば、お兄さまってば、お礼を仰有《おっしゃ》いよ。こんなに沢山いいものを……まだ寝ぼけていらっしゃるの……」
「アハハハハ……ハ。又足の夢でも御覧になったんでしょう……」
「……まあ……足の夢……」
「ええ。そうなんです。足の夢は新東さんの十八番《おはこ》なんで……ヘエ。どうぞあしからずってね……ワハハハハハハハ」
「マア意地のわるい……オホホホホ……」
「…………………………………………」



底本:「夢野久作全集8」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年1月22日第1刷発行
底本の親本:「瓶詰地獄」春陽堂
   1933(昭和8)年5月15日発行
入力:柴田卓治
校正:山本奈津恵
2001年6月16日公開
2006年3月16日修正
青空文庫作成ファイル:
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