いたが、そう思い思い壁の蔭からソッと首をさし伸ばしてみると、いい幸いに重症患者が居ないと見えて、玄関前の大廊下には人っ子一人影を見せていない。玄関の正面に掛かった大時計が、一時九分のところを指しながら……コクーン……コクーン……と金色の玉を振っているばかりである。
その大きな真鍮《しんちゅう》の振り子を見上げているうちに、私の胸が云い知れぬ緊張で一パイになって来た。
……グズグズするな……。
……ヤッチマエ……ヤッチマエ……。
と舌打ちする声が、廊下の隅々から聞えて来るように思ったので、我れ知らずピョンピョンと玄関を通り抜けて、向うの廊下のマットに飛び乗って行った。そうして昼間見た特等一号室の前まで来ると、チョットそこいらを見まわしながら、小腰を屈《かが》めて鍵穴のあたりへ眼を付けたが、不思議な事に鍵穴の向うは一面に仄白《ほのじろ》く光っているばかりで、室内の模様がチットモわからない。変だなと思って、なおよく瞳を凝《こ》らしてみると何の事だ。向う側の把手《ハンドル》に捲き付けてある繃帯の端ッコが、ちょうど鍵穴の真向うにブラ下がっているのであった。
私はこの小さな失敗に思わず苦笑させられた。しかし又、そのお蔭で一層冷静に返りつつ、扉《ドア》の縁と入口の柱の間の僅かな隙間《すきま》に耳を押し当てて、暫《しばら》くの間ジットしていたが、室《へや》の中からは何の物音も聞えて来ない。一人残らず眠っている気はいである。
「一般の入院患者さん達よ。病院泥棒が怖いと思ったら、ドアの把手《ハンドル》を繃帯で巻いてはいけませんよ。すくなくとも夜中《やちゅう》だけは繃帯を解いて鍵をかけておかないと剣呑《けんのん》ですよ。その証拠は……ホーラ……御覧の通り……」
とお説教でもしてみたいくらい軽い気持ちで……しかし指先は飽《あ》く迄も冷静に冴え返らせつつソーッと扉《ドア》を引き開いた。その隙間から室《へや》の中を一渡り見まわして、四人の女が四人ともイギタナイ眠りを貪《むさぼ》っている様子を見届けると、なおも用心深く室《へや》の中にニジリ込んで、うしろ手にシックリと扉《ドア》を閉じた。
私は出来るだけ手早く仕事を運んだ。
室《へや》の中にムウムウ充満している女の呼吸と、毛髪と、皮膚と、白粉《おしろい》と、香水の匂いに噎《む》せかえりながら、片手でクロロフォルムの瓶をシッカリと握り締めつつ、見事な絨毯《じゅうたん》の花模様の上を、膝っ小僧と両手の三本足で匍《は》いまわった。第一に、歌原男爵未亡人の寝床の側《そば》に枕を並べている、人相のよくないお婆さんの枕元に在る鼻紙に、透明な液体をポタポタと落して、あぐらを掻《か》いている鼻の穴にソーッと近づけた。しかし最初は手が震えていたらしく、薬液に濡れた紙を、お婆さんの顔の上で取り落しそうになったので、ヒヤリとして手を引っこめたが、そのうちにお婆さんの寝息の調子がハッキリと変って来たのでホッと安心した。同時にコレ位の僅かな分量で、一人の人間がヘタバルものならば、俺はチットばかり薬を持って来過ぎたな……と気が付いた。
その次には厚い藁蒲団《わらぶとん》と絹蒲団を高々と重ねた上に、仰向けに寝ている歌原未亡人の枕元に匍《は》い寄って、そのツンと聳《そび》えている鼻の穴の前に、ソーッと瓶の口を近づけたが、何だか効果が無《なさ》そうに思えたので、枕元に置いてあった脱脂綿を引きち切って、タップリと浸《ひた》しながら嗅《か》がしていると、ポーッと上気《じょうき》していたその顔が、いつとなく白くなったと思ううちに、何だか大理石のような冷たい感じにかわって来たようなので、又も慌てて手を引っこめた。
それから未亡人の向う側の枕元に、婦人雑誌を拡げて、その上に頬を押し付けている看護婦の前に手を伸ばしながら、チョッピリした鼻の穴に、夫人のお流れを頂戴させると、見ているうちにグニャグニャとなって横たおしにブツ倒れながら、ドタリと大きな音を立てたのには胆《きも》を冷やした。思わずハッとして手に汗を握った。すると又それと同時に、入口の近くに寝ていた一番若い看護婦が、ムニャムニャと寝返りをしかけたので、私は又、大急ぎでその方へ匍い寄って行って、残りの薬液の大部分を綿に浸《ひた》して差し付けた。そうしてその看護婦がグッタリと仰向けに引っくり返ったなりに動かなくなると、その綿を鼻の上に置いたままソロソロと離れ退《の》いた。……モウ大丈夫という安心と、スバラシイ何ともいえない或るものを征服し得た誇りとを、胸一パイに躍らせながら……。
私は、その嬉しさに駆られて、寝ている女たちの顔を見まわすべく、一本足で立ち上りかけたが、思いがけなくフラフラとなって、絨毯の上に後手《うしろで》を突いた。その瞬間にこれは多分、最前から室《へや》の中
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