ウォークのカーテンが垂れかかっているのは、誰か身分のある人でも入院したのであろうか……。
 ふり返ってみると右手の壁に、煤《すす》けた入院規則の印刷物が貼り付けてある。「医員の命令に服従すべし」とか「許可なくして外泊すべからず」とか「入院料は十日目|毎《ごと》に支払うべし」とかいう、トテモ旧式な文句であったが、それを見ているうちに私はスッカリ吾《われ》に還《かえ》る事が出来た。
 私はこの春休みの末の日に、この外科病院に入院して、今から一週間ばかり前に、股の処から右足を切断してもらったのであった。それは、その右の膝小僧の上に大きな肉腫が出来たからで、私が母校のW大学のトラックで、ハイハードルの練習中にこしらえた小さな疵《きず》が、現在の医学では説明不可能な……しかも癌《がん》以上に恐ろしい生命《いのち》取りだと云われている、肉腫の病原を誘い入れたものらしいという院長の説明であった。
「ハッハッハッハッ………どうしたんですか。大層|唸《うな》っておいでになりましたが。痛むんですか」
 今しがた私を揺り起した青木という患者は、こう云って快闊《かいかつ》に笑いながら半身を起した。私も同時に寝台の上に起き直ったが、その時に私はビッショリと盗汗《ねあせ》を掻《か》いているのに気が付いた。
「……イヤ……夢を見たんです……ハハハ……」
 と私はカスレた声で笑いながら、右足の処の毛布を見た。……がもとよりそこに右足が在《あ》ろう筈は無い。ただ毛布の皺《しわ》が山脈のように重なり合っているばかりである。私は苦笑も出来ない気持ちになった。
「ハハア。夢ですか。エヘヘヘヘ。それじゃもしや足の夢を御覧になったんじゃありませんか」
「エッ……」
 私は又ギックリとさせられながら、そう云う青木のニヤニヤした鬚面《ひげづら》をふり返った。どうして私の夢を透視したのだろうと疑いながら、その脂肪光りする赤黒い顔を凝視した。

 この青木という男は、コンナ奇蹟じみた事を云い出す性質《たち》の人間では絶対になかった。長いこと大連に住んでいるお蔭で、言葉付きこそ少々|生温《なまぬる》くなっているけれども、生れは生《き》っ粋《すい》の江戸ッ子で、親ゆずりの青物屋だったそうであるが、女道楽で身代《しんだい》を左前にしたあげく、四五年前に左足の関節炎にかかって、この病院に這入《はい》ると、一と思いに股《もも》
前へ 次へ
全45ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング