あかりに透かしてみると、白いレッテルに明瞭な羅馬《ローマ》字体で「CHLOROFORM」……「[#ここから横組み]十ポンド[#ここで横組み終わり]」と印刷してあった。
 その瓶の中に七分通り満たされている透明な、冷たい麻酔薬の動揺を両手に感じた時の、私の陶酔《とうすい》気分といったら無かった。この気持ちよさを味わいたいために、私はこの計画を思い立つのだと考えても、決して大袈裟《おおげさ》ではないくらいに思った。
 私はその瓶を大切に抱えたまま、ソロソロと月明りの磨硝子《すりガラス》にニジリ寄った。窓の框《かまち》に瓶の底を載せて、パラフィンを塗った固い栓を、矢張り袖口で捉えて引き抜いた。顔をそむけながら、その中の液体を少し宛《ずつ》小瓶の中に移してしまうと、両方の瓶の栓をシッカリと締めて、大きい方を元の棚に返し、小さい方を内懐《うちぶところ》に落し込んだ……が……その濡れた小瓶が、臍《へそ》の上の処で直接に肌に触れて、ヒヤリヒヤリとするその気持ちよさ……。
 それから私はソロソロと扉《ドア》の処へ帰って来て、聴神経を遠くの方まで冴え返らせながら、ソット扉《ドア》を細目に開いてみると、相変らず誰も居ない。病院中は地の底のようにシンカンと寝静まっている。
 私の心は又も歓喜にふるえた。心臓がピクンピクンと喜び踊り出した。それを無理に押ししずめて廊下に出ると、ゼンマイ人形のようにピョンピョン飛び出したが、鍛えに鍛えた私の趾《あしゆび》の弾力は、マットを敷いた床の上に何の物音も立てないばかりでなく、普通人が歩くよりも早い速度で飛んで行くのであった。
 私の胸は又も躍った。
 片足の人間がコンナに静かに、早い速度で飛んで行けるものとは誰が想像し得よう。これは中学時代からハードルで鍛え上げた私にだけ出来る芸当ではなかろうか。これならドンナ罪を犯しても知れる気づかいは無いであろう。……逃げる早さだって女なぞより早いかも知れないから、自分の病室に帰って来て寝ておれば、誰一人気づかないであろう。……俺は片足を無くした代りに、ドンナ悪事をしても決して見付からない天分を恵まれたのかも知れない……なぞと考えまわすうちに、モウ玄関の処まで来てしまった。
 ……これは拙《まず》かった。こっちへ来てはいけなかった。やはり一先ず自分の病室に帰って、裏の廊下伝いに行かなければ……と私はその時に気が付
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