伝えるように仕掛けまして小生の事を思い諦めさせようと試みていたのでありますが、些《すこ》しも効果がない事を知りまして、遂に最後の手段に訴え、自身に変装して小生の留守宅を襲い、妻を誘拐しようとしました。けれども数度の事変に懲りておりました妻ノブ子は、この時、既に最後の手段を覚悟していたものと見えまして、強盗の一群が自分を取り囲んでいる事を知るや否や、極力これに抵抗して数名を射殺し、それでも力及ばない事を悟るとその場で愛児嬢次を殺して自殺する決心を示しましたので、流石《さすが》のコンドルも手を引くの余儀なきに至り、今度は方針を改めて、気永に策略をめぐらして、妻を吾物《わがもの》としようと巧《たく》らみ初めました。このような悪事に関する彼コンドルの執念深さは実に驚くのほかありませんので、その手段や技巧が割合いに露骨で、低級なものがあるにも拘らず着々成功して今日の大を致しました原因は一にこの根気に在るものと考えなければなりませぬ。現に女の方面にかけても、米国各地の富豪、有力者の令嬢、女優、女記者等で、明敏な頭脳の持主でありながら、唯一つ、コンドルのかような意志の反覆力に根負けして、彼の妾《めかけ》となり、彼の手先となって活躍している女性が十数名に上っているのを見ても一目瞭然で、従って彼コンドルが、ノブ子に対する執念を今日に至るまで放棄していない事も、明かに首肯さるる次第であります。
コンドルは小生の妻ノブ子を責め落す半永久的手段の第一着手として、或る日隙を見て愛児嬢次を誘拐して見世物師に売り飛ばしてしまいました。そうして死なんばかりに狂い嘆くノブ子に嬢次の行方を探してやるのだからと云い聞かせて、東部、紐育《ニューヨーク》に連れ出しました。
しかもノブ子はこの時までも、今迄の迫害がコンドルの所為であった事に気付かずにおりましたので、当時行方不明の形になっておりました小生に断る迄もなく、同人の親切に慰められて兎《と》も角《かく》も心を落着け、家財の全部を同業者に売り払って紐育に移住しましたが、愛児の行方は勿論のこと、色々な事を報告してくれる友人から遠ざかりましたために、小生の行方を尋ねるよすが[#「よすが」に傍点]さえなくなってしまいました。
一方にコンドルもその後二三年の間はノブ子に付き纏って何かと親切振りを見せ、その心を動かすべき機会を探っておりましたが、遂にその折を得ず、強いて迫る時は自殺でも仕《し》かねない決心をアリアリと見せましたので、亜米利加女ばかりを相手にし慣れておりましたコンドルは、かようなノブ子の純日本式貞操観念を理解する事が出来ず、一種のヒステリーと考えましたらしく、熱心に入院静養を勧めた事もあったそうであります。一方に小生はまた、妻が小生を見限って、愛児と共に行方を晦ました旨をコンドルから聞きましたのみならず、小生が苦心して開拓した事業その他の財産までも妻が奪い去ったという報告を信じまして、全く妻子の事を断念し、依然として悪事の頭目となり、指揮計画者となりつつ、酒色に親しんでおりました。
然るにこれを見ましたコンドルはイヨイヨ機会が熟したものと考えましたらしく、妻を手に入れる第二段の策略に取りかかりました。
すなわちコンドルは友人の悪弁護士や偽探偵を使って、愛児嬢次の行方を捜索してやると言葉巧みに偽らせ、時々は見すぼらしい姿をした嬢次の写真を見せたりなぞしまして、四五年の間にノブ子の全財産を捲き上げてしまいました。ここに於てノブ子は窮迫の余り、僅かに残った金でタイプライターと簿記を習い覚え、紐育《ニューヨーク》北郊外ハドソン河の傍らなるマハン造船所の前に在る料理店ゴールデン・ハマーの事務員に住み込む事になりました。ところが、しかも偶然か天意か知らず、このゴールデン・ハマーこそはその当時J・I・C秘密結社の根拠となっていた処でありまして、コンドルはこの時、東部首領となって、当時危機一髪の境におりました欧洲大戦前の各国外交の裏面に活躍して、バルカン方面に根拠を据えて策動しており、小生は西部首領となりまして、桑港《サンフランシスコ》に根拠を構え、主として支那、朝鮮内地に活躍するJ・I・Cの資金輸送の仲介を仕事と致しておりました。
然るに又、妻ノブ子はこのゴールデン・ハマーに住み込みますと間もなく、そのカーネション会社経営から得た事務的才能を発揮致しまして、店主アラン、及び、団員一同に認められるように相成りました。そうして日本のJ・I・Cにまだ然るべき中心人物が居ないために、その情報部長としてノブ子を派遣する事に内定し、店主アランとゴンクールの両人から、言葉巧みに結社の加入を勧誘し初めたのであります。
ところで元来この、J・I・C結社の建前と致しましては、その国々に同情を持たない他国人、もしくはその国に深怨を抱いている隣国人を密偵として派遣し、その国人に対する兇悪なる仕事の遂行、もしくは団員相互の制裁等に、情実的な間違いの起らないように警戒するのが通例となっておりますので、この意味から申しますと、こうした団員の決議は異例に属する事でありました。殊《こと》にかような女を、日本内地に於けるJ・I・Cの首領とも見るべき情報部長に決定したというのは異例中の異例に属するものでありましたが、その理由と申しますのは他でもありません。J・I・Cの団員が貴方《あなた》の名声を恐れていたからであります。すなわち先年、貴方が英国大使館の日英同盟に関する重要書類紛失事件に関係されました際、現場の近くに吐き棄てられたチューイング・ガムの形状によって、その犯人の国籍と職業を推定し、事件発生後二時間を出でず、東京市内を脱出する暇《いとま》なき以前に犯人を逮捕されたる事実が、日英両国を除きたる各国の新聞に漏洩し、大々的に報道されましたので、かくの如く外国の事情に精通したる名探偵には、外国人は不向きかも知れぬ。寧《むし》ろ日本人の、しかも女を派遣して、意表に出る策略を執ったならば却って安全かも知れぬという説が多数を制しましたために、コンドル首領も不承不承に承知したものと考えられます。
しかし申すまでもなくゴンクールのコンドルは、この事を少しも小生に相談しませず、ただ愛児嬢次が日本に居るらしいと偽って、妻を日本に追いやったものでありますが、馬鹿正直な妻ノブ子はこの時までもなお、コンドルの人物と仕事が不正不義なものである事を気付かず、コンドルは世界中の国々の法律や制裁に関係なく、秘密の裡に不幸なる民族国家を助くる超人的人物と信じ切って結社加入を承諾しましたものだそうで、同時に又、小生がこの結社の西部首領となっておりました事も、この団体の完全な秘密組織のために遮断されて夢にも聞知していなかったそうであります。すなわち小生も妻も、結社加入以来一度も本名を名乗らず、変名、もしくは自己の標識番号のみを以て通信し、且つ、英文タイプライターばかりで事務通信をしておりましたので、数限りない手紙や電報を取り交しながら、一度もその夫であり、妻である事を知り得なかったのであります。
かような次第で、妻ノブ子は、伜《せがれ》嬢次が日本に居るらしいという話を聞くや、大喜びでジェイ・ファースト(J・1)の番号を貰いまして、小生が居りました桑港《サンフランシスコ》を秘密裡に通過して日本に参りました。そうして東京麹町区土手三番町浸礼教会跡に隠れ、外務省機密局に奉職し、J・I・Cのために働く一方、精魂の限りを尽して愛児の行方を捜索しておりますうちに、早くも三年の月日を経過致しました。
然るにこの時、ノブ子が日本に到着する以前から初まっておりました欧洲大戦は正に酣《たけなわ》となっておりまして、聯合国側と独逸《ドイツ》側と、いずれも絶体絶命のところまで押し詰め合って、双方の力は殆んど相伯仲しているかのように見えておりましたのが、漸次独逸側に有利となって来る形勢を示しておりました。すなわち聯合軍側は各種の利害関係と、人種的、もしくは国家的反感のために、統一力の不足を明かに暴露致しておりました上に、勤倹質素の生活に堪え得ないため、刻々に物資の不足を来し、独逸軍の決死的奮戦に見る見る圧倒されまして、今三箇月もすれば決定的に、四分五裂の守勢敗北状態に陥るものと観測されておりました。
ここに於て米国ウオル街の金権連中の中でもモルガン一派の富豪は、その当時までに聯合国側に供給しておりました巨額の資金と物資が貸し倒れとなるのを恐れまして、今まで最後の最後の最後通牒を独逸《ドイツ》に発しつつ軍備の充実を計る傍ら、形勢を観望しておりましたウィルソン大統領の部下二三名の者に賄賂を贈って、出来る限り参戦を早め、至急に動員を行うように勧告させました。
同時に一面に於て、かような形勢に対する大統領の決意を早くも察知しましたウオール街の金権、資本家連中は、直ちに西比利亜《シベリア》出征米国司令官、日本、及び支那駐在の米国使臣と秘密裡に交渉を重ね、又、他方面には英国|愛蘭《アイルランド》の独立運動に潜入せるJ・I・Cの密偵首領と十分なる協議を遂げた後《のち》、露西亜《ロシア》と、独逸と、支那の反乱を助けて、三国を米国資本の支配下に置くべき方針を決定し、モルガン一派と相前後してウィルソン大統領にこの旨を進言しました。これは強大なる陸軍と、高潮せる民族意識を保有せる独逸と露西亜を圧倒すると同時に列強の弱点を押え、一方に支那の利源を糧《かて》として東洋の覇権を握らむと焦慮しつつある日本の死命を制して、全世界を米国資本の植民地化し、米国をして事実上の世界の王たらしむべきウィルソン氏の理想と一致するものがありますが、果して偶然に一致したものかどうかという事は小生の存じております範囲では不明であります。ただ小生はコンドル、即ちウルスター・ゴンクールが、ウオル街の資本家代表グランド・シュワルト(旧タマニー・ホールの残党?)氏より巨額の資金を受取りまして、この手段の実行方法に就き小生の忌憚《きたん》なき意見を求めて来た事実を知っているのみであります。
かくしてウオル街の資本家代表G・シュワルトは、この種の仕事を一手販売にしておりましたJ・I・Cにこの大事業を依頼して来ましたので、コンドルは欧洲方面を引受け、小生は東洋方面の仕事を担任するに決し、その計画を立てる事になりました。
その計画の第一は、先ず、目下満洲に勢力を張っております張作霖に軍資金と、十数台の優秀なる飛行機を貸し与え、従来の親日傾向を放棄させて日本を圧迫させる一方に、一時平静に帰しております支那の内治を再び攪乱し、その虚に乗じて、支那各地の利権と、金融機関の中心を掌握するにありました。
又、これに並行する第二の計画と申しますのは、目下|西比利亜《シベリア》の実権を掌握しております白系露人の有力者を強大なる金力で糾合して一丸となし、極東露西亜帝国を建設し、その心臓となるべき浦塩《うらじお》の金融機関を米国の一手に掌握し、豊富なる西比利亜の金鉱、石炭、木材等の利権を開発する事でありました。
申すまでもなく、如上《にょじょう》の計画は小生の一存で決定したものではありませぬ。ウオル街代表G・シュワルト氏の意を受けたJ・I・C幹部の大体計画によって小生が細部の意見を附け加えましたもので、精密な内容は外務省機密局長M男爵に報告してありますから、ここには略さして頂きますが、ただここに一つ、この仕事の可能か不可能かの運命を決定する重大問題がありました。G・シュワルト、W・ゴンクール、並《ならび》に小生は勿論の事、米国政府の首脳部も唯、この問題の一つのために、極東に対する政策の根本方針を決定し得ずにいる深刻な事実がありました。
それは日本が保有している石油の量という、極めて簡単な一問題でありました。
御承知の事とは存じますが、現在、及び、将来の戦争に於て、その一国の戦闘力を根本的に支配するものは石炭でもなければ、火薬でもありませぬ。唯一つの石油であります。飛行機、軍艦、自動車、タンク等、戦略、戦術の死命を制する器械は悉《ことごとく》重
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