)を締めた時の手で、芝浦からモーター・ボートでずらかってもいい……お前《めえ》はなかなか色男……あはははは。もう止してくれ?……身ぶるいが出る?……意気地のねえ事を云うな。卵を潰すようなもんじゃねえか。手前《てめえ》の指先にかけたら……うんうん。まあゆっくり芳月軒で話そう。カルロ・ナインも起して連れて来てもいい……ほかはちょんの間に寝かしとけあいい。欲しがっていたオニンギョウでも抱かしてな……うんうん……。
……なにい。こっちの女《あま》はどうするって?……はっはっ。いやに気にするじゃねえか。今日はここいらで見切を付けて帰《け》えるんだ。あとでサヤマを欺して、何とか用事をこしらえて上海《シャンハイ》に追いやって、あそこの仲間に一服盛らせる。蠅取紙に蠅を乗せるようなもんだ。ジョージせえ見付かれあ、あとは彼奴《あいつ》に用なんかねえんだからな。……あとには身より頼《た》よりのねえ女《あま》が一人残る。こいつをサヤマの贋手紙で大連《たいれん》あたりへ呼び出させる。……この手紙を書くのは手前《てめえ》の役だぞ……いいか……そうして大連までおびき出せあ、あとは煮て喰おうと焼いて喰おうと……ってえ寸法がちゃんと出来ているんだから、すげえだろう……はっはっ……そんじゃ芳月軒に来てくれるな……よしよし……俺が行ったら電話をかける……うん。……あばよ……」
私はこの電話がまだ済まないうちに、いつの間にか窓から三尺ばかり離れて突立っていた。私の両腕は憤怒に唸《うな》っていた。両眼はかっと窓の中を睨んでいた。今朝《けさ》からのむしゃくしゃを一時に爆発さして……。
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……もう勘弁ならぬ。野郎が室《へや》を出たら承知しない。一《ひと》当てで引っくり返してくれる。それから女を引っくくって二人とも生捕りにしてくれる。曲馬場の時はこっちが夢中になっていたから縮尻《しくじ》ったが、今度は先手を打つのだから間違いはない。それから二人の眼の前で志免に電話をかけて帝国ホテルと芳月軒に手配をさせてくれる。……女はジョージの情婦らしいが、ジョージと突き合わせてたたき上げればわかる事だ。訳はない。……××大使や外務省なんかに物は云わさないぞ。畜生。見やがれ。どうするか……。
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と肩で息をしながらじりじり後しざりをしていた。
しかし窓の中の二人は、無論、気付いていなかった。受話器を元の処に返したストーン氏は何喰わぬ顔をして、ハンカチで口のまわりを拭く間《ま》に、以前の物柔らかな、堂々たる好紳士に立ち帰っていた。
「ありがとうございました。それでは私、失礼します。何卒《どうぞ》……何卒、今の事、よろしくお頼みします。いろいろ御親切にありがとうございました。済みませんでした」
こう云いきったストーン氏は、女が返事をしないので調子悪そうに立ち上ると、恭《うやうや》しく目礼をした。
「……さようなら……」
「……………」
女はいつの間にか口を噤《つぐ》んで、石のように固くなっていた。そうしてストーン氏の言葉のきれ目きれ目に微《かす》かにうなずいて見せながらも、眼は恐ろしそうに警視庁用の封筒をじっと見つめていたが、ストーン氏が別れを告げると、謹んで目礼を返した。そうして氏を送り出すべく、躊躇するようにおずおずと立ち上った。
私はワイシャツが闇の中に眼立たないように、外套の襟釦《えりぼたん》をぴっちりと掛けた。そうしてさあ来いと身構えるには身構えていたが、しかし何だか物足らぬような気がして仕様がなかった。この室内の装飾は、多分何かの目的でストーン氏を欺くためにした事と、私は最初から睨んでいたが、しかし、たったこれだけの事のためにしては余りに念が入り過ぎている。あとで私を欺くためとは無論思えなかった。
その中《うち》にストーン氏は玄関の入口の垂れ幕を引き退《の》けて、玄関の横の扉《ドア》の把手《ノッブ》に手をかけた。私も急いで椿の蔭を出ようとしたが、ちょうどその途端に、今まで黙っていた女が、何やら口を利き出したので、ストーン氏は振り返った。私も亦《また》、硝子《ガラス》窓に耳を近づけた。
「何ですか」
とストーン氏は、女の方に半身を向けて眼を※[#「※」は「目+爭」、第3水準1−88−85、286−13]《みは》った。
「貴方《あなた》はもしやあの丸の内で、曲馬を興行しておいでになるお方ではございませんか」
女の声は石のように硬ばって、今までの弱々しい調子がすっかりなくなっていた。そうして丸|卓子《テーブル》の上の灰色の封筒と、ストーン氏の顔とを恐ろしげに見比べた。
この様子を見るとストーン氏は急に女の方に向き直って、晴れやかに顔を光らした。
「はーい。そうでございます。私はそのキョク……曲馬団のマネジャー……ダン…
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