…なぞと色々心配しているうちにとうとうほんとうに眠ってしまったらしい……。
……それはおよそ二時間足らずの睡眠であったらしい。けれども疲れた頭と身体《からだ》を休めて、新しい元気を回復するには十分であった。そのうちにふっと気が付いてみると眼の前に十二三の見習いらしいボーイが立っている。そうして肩を怒らしながら紫色のハンカチで包んだ四角いハガキ大のものを私の鼻の先に突き付けている。
私は無言のまま何気なくその包みを受取った。結び目を解いて中味を検《あらた》めて見ると、何でもない古新聞紙で、ただ紫のハンカチを包みらしく見せかけるために包んだもののように見えた。
私はそう気付くと同時にハッとした。そうして眼の前に空しく並んだ四つの皿をジイーと睨み付けた。
その時にボーイは横柄《おうへい》な態度で云った。
「さっき表を通った方《かた》が、貴方《あなた》に渡してくれと云ったんです。……ですけど、ちょうどお寝《やす》みでしたから待っていたんです」
その言葉が終るか終らないかに私は椅子を蹴って立ち上った。ボーイはその剣幕に驚いて一寸|後退《あとじさ》りをしたが、魘《おび》えた眼付きをして私を見上げた。
「それはいつ頃だ」
「一時間……二時間ぐらい前です」
「どんな人間だ……」
「……よく……わかりません。俥《くるま》の幌の中から差し出したんですから……けれども何でも若い女の方のようでした」
「何と云った」
「エ……?」
「そいつが何と云った」
「二階の窓のすぐ側の西側の隅っ子の卓子《テーブル》に灰色の外套を着て、腰をかけて居眠りをしている紳士の方に差上げてくれと……」
「それだけか」
「ハイ……」
私は窓の外を見た。私の姿は窓の外から見えないようになっている。
「俥の番号は記憶《おぼ》えているか」
「よくわかりませんでした」
「どっちへ行った」
「新橋の方へ……」
私は紫のハンカチを新聞紙と一緒に内ポケットへ突込んで、机の上に五十銭玉を五つ投げ出した。
「お釣銭《つり》はお前に遣る」
と云ううちに帽子を掴んで表に飛び出しかけたが又立ち止まってボーイを振り返った。
「俺が今喰った……その四皿の料理はスープとハムエッグスと黒|麺麭《パン》と珈琲《コーヒー》だったナ……ウイスキー入りの……」
「ハイ……貴方が御註文なすったんです」
ボーイは叱られるのを待っているような顔をした。
「よし。この家《うち》には電話があるか」
「御座います」
「数寄屋橋タキシーに電話をかけて早いのを一台大至急でここへ……」
「タキシーなら一軒隣りに二台あります」
私はその声を半分階段の途中で聞きながら表へ飛び出した。ボーイが指した方向の一軒隣りに駈け付けて、たった今帰って来たばかりの新フォードに飛び乗ると、ニキビだらけの運転手に五円札を二枚握らした。
「新宿駅まで……全速力だぞ……車内照明《ルーム》を点《つ》けないで……」
運転手は札《さつ》を握ったまま恨めしそうに振り返った。
「この頃はルーム点けないと八釜《やかま》しいんです。直ぐに赤自動自転車《アカバイ》が追っかけて来るんです」
「構わない……俺は警視庁と心安いんだ……」
話が又、少々|傍道《わきみち》へ這入るようであるが、しかしここでちょっと脱線を許してもらわないと、話の筋道が無意味になりそうだから止むを得ない。
あれ程、昏迷に昏迷を重ねて来た私が、何故にこのような猛然たる活躍を初めたか。もっと具体的に云えば、前記の通り取り付く島もないほどへたばり込んで、涙も出ないほど叩き付けられていた私が、たった今、カフェー・ユートピアで紫のハンカチを受け取って、自分が註文して喰ってしまった四皿の料理の名前をもう一度確かめると同時に、何に驚いてタクシーに飛び乗って、全速力の一直線で、狂人《きちがい》のように新宿めがけて飛び出したか……という理由を説明するには、是非とも私の体験と観察から生れた「第六感論」なるものを少々ばかり御披露させてもらわねばならぬ。そうして兎《と》にも角《かく》にも世間の所謂《いわゆる》「第六感」なるものが決して非科学的な、もしくは荒唐無稽なものでない。寧ろ恐ろしく科学的な、非常に深刻偉大な実在現象である事を、幾分なりとも認めてもらわなければ、かんじんのところで話の眼鼻がつかなくなると思うからである。
読者も御承知の事と思うが、すべて新聞記者とか、刑事とかいうものは多少に拘らず第六感というものが発達しているものである。私は近い中《うち》にこの第六感が活躍する実例を種類別にして、纏めて、「第六感」と題する書物にして出版するつもりだから、苟《いやし》くも探偵事件に興味を持つ人々は、是非とも一読せられたい……いや……これは広告になって申訳ないが、ここにはその内容の大要だけを述べさして
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