目下のところこの毒物が何であるかは明言出来ない。尚《なお》、また、日本でこの種の毒物が使用された事実をまだ聞かない事と、高等な医学と有機化学の知識と、優秀な看護婦程度の経験が、この毒物の製造と応用に必要な点から推して、この女が容易ならぬ学識手腕を持っているか、又は女の背後に意外に深刻な魔手が隠れて、女を操《あやつ》っているのではないか……という仮定が成立しそうに思えるが、しかしこれは単に仮定であって軽々しくは断定出来ない。何故かと云うと、この女の犯罪行為の中《うち》には如何にも素人じみた失策が幾つも在るので、この女を使用してこんな犯罪を遂行させた人間がもしいるとすれば、それは殆んど女と同等の素人でなければならぬとも考えられるからである。だからこの場合は、全然毒殺の経験を持たない女が、この紳士に対して殺意を持っているうちに、このような毒物を手に入れたので、俄《にわ》かに思い付いた犯罪と見るのが、至当ではないかと考えられる。
……ところでその女の失策というのは、今数えて見ると四つばかりある。
その第一は自分の手に、紫のアニリン染料が附いているのを気付かないで、紳士の濡れたハンカチを取ろうとしたために、隅の方に紫の指痕を附けた。その変色していない部分は布地《きれじ》が乾燥していたために化学変化を起さなかったので、そのためにこの女はタイプライターを扱う女という事実が推測され得る事になった。
その第二はこの室《へや》に来ておりながら、毒薬を拭いたハンカチを奪い返さずに立ち去った事で、その第三は鍵を掛けないで逃げて行った事である。これは何かに驚いたためではないかと考えられるのであるが、しかしこの第三の鍵を掛けなかった失策は、その以前にボーイに大枚二十円を与えて口止めをしていたので大した失策にならずに済んだ。
……最後にこの女は、非常に注意深い性質でありながら、犯罪行為には慣れないと見えて、到る処に大きな犯跡を残している。その中でも指紋に関する知識はまだ一般に普及されていないから、ワニス塗りの扉《ドア》に手を触れたのは咎《とが》めないとしても、油引きの廊下の左端の方を選《よ》って歩いたのは、如何にも馬鹿馬鹿しい不注意である。足跡を残すのはまだいいとしても、万一辷りたおれでもしたら、それこそ大変な事になったであろう。
……なお他殺という事は、この紳士の性質と行動を見ればわ
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