に現われて来る怪現象に見惚《みと》れて、身動き一つ出来なくなっていた。
 珈琲の汚染《しみ》は殆んど全部に亘っていて、汚れていない処は右上の角の一部分しかない。そこ、ここに、ポケットの内側の変色した部分と同じ色の淡《うす》い汚染《しみ》が、両端の尖った波の形をして散らばっている……その中に、巻煙草の粉の形をした小さな短冊型が薄青く輝きながら、群をなして現われて来た。それからその真中あたりに、茶色にぼやけた半円形が二つ半? ばかり辛《かろ》うじて見えて来たのは指を拭いた痕跡らしく、大方脂肪分が変色したものであろうと考えられる。そのほか極めて淡《うす》い雲のような汚染《しみ》の形が処々に見えるが、何の痕跡だか推定出来ない。
 そんなものを一渡り見まわした私は、最後に、右上の端の珈琲の汚染《しみ》の附いていない処に眼を注いだ。そこには極めて鮮麗な紫色がかすれたようになって附着しているが、その色が珈琲の汚染《しみ》になった処に這入ると急に流れ拡がって、淡い緑色に流れ出している。この紫色はもう一つの絹ハンカチの色とは違って、眼に沁みるほど華やかで、確かにタイプライターのリボンを抓《つま》んだ指を拭いた痕跡に違いないと思われた。それから私はハンカチの上の両端を左右の拇指《おやゆび》と食指《くすりゆび》でしっかりと摘んで、強く左右に引っぱって見たが、まだそんなに力を入れもしないうちにハンカチは何の苦もなくびりびりと裂けて、左右の二つに別れてしまった。
 私は思わずほっと一息しながらハンカチから眼を離したが……振り返って見ると私の周囲にはいつの間にか二三十の眼が集まって、私のやる事を不思議そうな顔をして見ていた。
「この室《へや》にはタイプライターは……」
 と私は独言《ひとりごと》のように云いながら見まわした。
「いえ。ないのです。この紳士の指は太くて固くて、とてもそんな小まめな器械はいじれません。そしてインキの代りに泥が爪の中までこびり付いています」
 と志免警部は即座に答えた。私の背後《うしろ》から覗き込んで紫の汚染《しみ》に気が付いていたものと見える。
 私は引き裂いたハンカチをそっと寝台の上に置いて、隣の室《へや》に行って洗面器で手を洗って来た。直ぐにもう一つの紫の女持《おんなもち》絹ハンカチを摘み上げて、同じように窓の明りで透かしてみたが、これには何も見当らず、ただ強い
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