あった。その電車は、けたたましい笛を二三度吹きながら遠ざかったが、あとは森閑としてしまった。……間もなく、
「……柏木イ――……柏木イ――イ……」
という駅夫の声がハッキリと冷たい空気を伝わって来た。
私ははっと吾に帰った。同時に、おそろしい悪夢から醒めたような安心と喜びとを感じた。
……今まで見たのはこの世の出来事ではなかった。死人の世界の出来事であった。死後の執念の芝居であった。死人の夢の実現であった。
けれども私は依然として生きた私であった。生きた血の通う人間であった。電車が通い、駅夫が呼び、電燈が明滅し、警笛が鳴る文明社会に住んでいる文明人であった。……そうして眼の前に展開している死人の夢の最後の場面……四つの死体に飾られた私の室《へや》も、やはり、科学文明が生み出した日本の首都、東京の街外れでたった今起った一つの異常な事件の残骸に過ぎなかった。それは当然私が何とか始末しなければならぬ目前の事実であった。
私はこの時初めて平常の狭山九郎太に帰る事が出来たのであった。
……構うものか……這入ろう……。
と思った。それと同時に青年時代からこのかた約二三十年の間影を潜めていた好奇心が、全身にたまらなく充ち満ちて来るのを感じた。
私は用心しなくともよかろう……とは思いつつ本能的に用心しながら静かに硝子《ガラス》窓を押し明けた。栓が止めてないのでスーウと開《あ》いた。その窓框《まどかまち》に両手をかけて音もなくひらりと中に跳り込んで、改めて室《へや》の中を見渡した。
洋盃《コップ》は床の上に転がっている。絨毯は踏み散らされて皺《しわ》になっている。珈琲碗は飛び散っている。時計は九時五分を示している。
その下にゴンクール氏は黄蝋色に変色した唇を開いたまま、あおむいている。その丈夫そうな歯はすっかり乾燥して唇にからび附いている。
そんなものをすっかり見まわしてから私は静かに眼をあげて女の顔を見た……が……意外な事を発見して思わずたじたじと後退りをした。
……見よ……。
涙が一筋右の顳※[#「※」は「需+頁」、第3水準1−94−6、358−13]《こめかみ》を伝うて流れている。左右の長い睫《まつげ》にも露の玉が光っている。紅をつけた唇の色はわからないが厚化粧をした頬には処女の色がほのめいている。女は死んだ人間のように見えぬ。
この時の私の心持ちは
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