一時に逆立った。全身の血が心臓を蹴って逆流した。思わず椅子から立ち上って絶叫した。
「待てッ…………」
 ……それからどうしたか記憶しない。気が付いた時にはもう広場の真中に駈け出していて、向うから走って来た最前の鬚武者《ひげむしゃ》の巨漢ハドルスキーに背後から羽がい締めにされていた。
「きちがいだきちがいだ」
「摘《つま》み出せ――ッ」
 なぞ云う声が八方から聞える。巡査と西洋人と人夫らしい男が二三名走って来るのが見える。
 けれども私はそんな者を相手にする隙《ひま》はなかった。それこそ本当の狂人《きちがい》のように身を藻掻きながら絶叫し続けた。
「……ここを放せ……放せ。危険だ。危険だ。次の番組をやってはいけない。馬の舞踏をやってはいかん。途中で馬が……馬が……ええっ。ここ放せ……ハドルスキー……放さぬか……ええッ……」
 私の声は徒《いたず》らに空《くう》を劈《つんざ》いた。場内は空しくワーワーと湧き立った。しかしハドルスキーは平気であった。足を宙に振り舞わして暴れる私を楽々と引っかかえて、一歩楽屋の入口の方へ歩み出した。その時に今まで静かであった音楽が、急に浮き浮きしたワンステップの愉快な調子に変った。これは演技が初まった事を知らせるので、この音楽に連れて楽屋の入口から、馬と美人が入れ違いに並んで、踊りながら出て来るのであろう。
 私は無言のまま、死力を尽して羽がい締めから脱け出そうとしたが無効であった。私の力量は庁内でも有名なもので、狭山は鉄の棒を曲げるとまで云われていた。鬼という綽名《あだな》も一つはそうした意味で附けられたのであるが、このハドルスキーの金剛力には遠く及ばなかった。彼は籐椅子《とういす》を一つ抱える位の力で私を締め上げている事が、明かに私の背中に感じられた。そうして自信のある柔道の手を施す術《すべ》もないうちに私の両肩は、巨大な噛締機《バイト》にかかったように痺《しび》れ上って、抵抗する力もなくなってしまったばかりでなく、肋骨がメリメリと音を立てて千切《ちぎ》れて行くような……今にも肺臓が引き裂かれて、呼吸《いき》が止まりそうな大苦痛を感じ初めたのであった。
 ……死ぬのだ……俺は殺されるのだ……楽屋に連れて行かれて……。
 ……そうした絶望的な予感が二三度頭の中に閃めいて、私の抵抗力を無理に振い起させた。私はただ力なく藻掻きまわった。
 
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