見上げながら、私一流の厳格な態度で訊ねた。
実をいうとこの時に私は、この少年に対して一種の不安と不愉快とを感じ始めていた。これは非常に得手勝手な話であるが、つまり私はこの少年のために、前に述べたような孤独な生活の安静を妨げられるような事になりはしまいかという虞《おそれ》を十分に感じ始めていたからで、さもなくともこの少年が、私に与えた驚きと疑いは、今まで実験の事で一ぱいになっていた私の頭を掻き乱すに十分……十二分であったからである。だから一刻も早くこのような妙な来客を逐《お》っ払ってしまいたい。そうして急いで彼《か》の「馬酔木《あしび》の毒素」の定量分析に取りかかりたいというのが、この時の私の何よりの願望であった。
けれども少年は平気であった。大抵の人間ならば、こうした私の態度を見ただけでも怖気《おじけ》が付くか、不快を感ずるかする筈なのに、この少年は恰《あたか》も、私がこんな態度を執《と》るのを予期していたかのように、相変らず唇の処に懐し気な微笑を含みながらポケットに手を突込んで一枚の古新聞紙を出した。それは余程古くから取ってあったものらしく、外側の一|頁《ページ》はもうぼろぼろになっていたが、その折目を一枚一枚丁寧に拡げて行って、最後に頁の真中に赤丸を付けた処が出て来ると、そこを表面にして折り畳んで私の前に恭《うやうや》しく差し出した。受け取って見ると、それは大正七年……一昨年の十月十四日の曙《あけぼの》新聞の人事広告欄で、赤丸の下には次のような広告が出ていた。
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◇助手[#「助手」はゴシック体] 入用薬物研究物理化学初歩程度の知識要十七八乃至二十四五歳迄の男子月給二〇住込通勤随意履歴書身元保証不要毎日後五時本人来談に限る柏木一五一二狭山
[#ここで字下げ終わり]
これは一昨年の秋、私が妻を亡くして悲歎の余り、研究に没頭して凡《すべ》てを忘れようとした時に、東都日報と、曙新聞と、東洋日日に出した広告の一つで、これを見るとまざまざとその時の事を思い浮べる。この時分の私の頭は余程変になっていたものと見えて、随分|杜撰《ずさん》な広告を出したもので、この広告のために私は、それから後《のち》一箇月ばかりの間というもの毎日毎日私の帰りを待ち受けている浮浪人や乞食同様の連中に悩まされ続けたものであった。実は柏木の狭山といえば多分
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