手に基督《キリスト》が十字架にかかっている図が架《か》けてある。……この絵を見ると私はやっと思い出した。それは何でも私が東京に来た当時の事で、驟雨《しゅうう》に会って駈け込んだ序《ついで》に、屋根の借り賃のつもりで一時間ばかり説教を聞いた事がある。その時に独逸《ドイツ》人らしい鷲鼻の篤実そうな男が片言まじりの日本語で説教をしていたが、その男が十年後の今日になって戦争で引き上げた後を調査したら、独探《どくたん》だった事が判明したので一時大騒ぎになって、その男の顔が大きな写真になって新聞に出た事がある。その時にもこの絵の事を思い出したが、私が関係した事件でなかったので忘れるともなく忘れていた。その跡を女が借りたものであろう。
 そのうちに私は窓の上を這っている電燈と電話の線を発見したが、電燈の方は室《へや》の中央に旧式の花電燈があるから不思議はないとしても、こんなちっぽけな教会に電話は少々不似合である。……ハテ可怪《おか》しいな……と思いながら祭壇の横の扉《ドア》を開くと八畳ばかりの板張りになって、寝台が一つと、押入れと、台所と戸棚が附いている。寝台の上の寝具は洗い晒《ざら》した金巾《かなきん》と天竺木綿《てんじくもめん》で、戸棚の中には小桶とフライパン、その他の台所用具が二つ三つきちんと並んでいる。水棚の上も横の瓦斯《ガス》コンロも綺麗に掃除してある。その先は湯殿と、便所と物置で、隣境いの黒板塀との間に金盞花《きんせんか》が植えてある。
 私は慌てて押入を開けてみた。鼠の糞《ふん》もない。その床板を全部|検《あらた》めてみたが一枚残らず釘付になっている。
 私は裏口へ飛び出してみた。庭は四方行き詰まりで新しい箒目《ほうきめ》が並んで靴|痕《あと》も何もない。
「逃げたな」
 という言葉が口を衝《つ》いて出た。そうしてそのまま表の説教場に引返《ひっかえ》すと、そのまん中の椅子の間に書記を連れた熱海検事が茫然と突立っていたが、私を見ると恭《うやうや》しく帽子を脱いだ。
「どうも遅くなりまして……自動車の力が弱くて五番町の坂を登り得ませんでしたので……犯人は挙がりましたか」
 私は無言のまま頭を左右に振った。それを見ると熱海検事は同氏特有の憂鬱な眼付きをして、森閑《しんかん》とした室《へや》の中を見まわしてから又私の顔を見た。志免警部を入れた四名の警官が煙のように消えてしま
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