一度|襯衣《シャツ》を切り破るような、詰まらぬ贅沢をする人間もなかろうし、局部を消毒した脱脂綿も見当らなければ、注射の後で絆創膏《ばんそうこう》を貼った形跡もないのが第一奇怪と云わなければならぬ。反証はこれ一つで沢山だ。
 ところでいよいよ他殺でもなく、自殺でもなく、過失でもない……とすればあとには「病死」と「老衰死」とが残る。しかしこれを問題にするのはあとで読者をあっと云わせる探偵小説か何かの話で、実際にはあり得べき事でない。
 私は落胆《がっかり》してしまった。
 一たい今日の事件は手がかりが早く付き過ぎていて、判断の材料が複雑多岐を極め過ぎている。だからこんなに迷うのだ。……だからどっちにしても女を捕まえさえすれば見当が付く事と思って、彼《か》のカフェーでボーイの話を聞いているうちから、女が犯人でないかも知れないと気付いていたにも拘らず、そのままにして、志免警部の活躍に一任しておいたのであったが……。
 遣《や》り直し……遣り直し……。
 読者は嘸《さぞ》かし自烈《じれっ》たいであろう。私もうんざりしてしまった。しかし一人の絶世の美人が、貞烈無比になるか、極悪無道になるか、絞首台に登るか登らぬかの境目だから、今一度辛棒して考え直さなければならぬ。苟《いやし》くも法律の執行官たるものが、こんな無責任なだらしのない事でどうする……と自分で自分の心を睨み付けながらそろそろと歩度を緩めた。そうして全然別の方向からこの事件を観察すべく、鼻の先の一尺ばかりの空間に、全身の注意力を集中し初めた。
 すべて探偵術のイロハであって、同時にその奥義となっている秘訣は、事件の表面に現われた矛盾を突込んで行く事である。これは強《あなが》ちに探偵術ばかりでなく、凡《すべ》ての研究的発見は皆そうだと云っても差支《さしつかえ》ない位で、高尚なところでは天文学者が遊星の運動の矛盾から割出して新しい遊星を発見し、生物学者が動植物の分布の矛盾から推理して、生物進化の原理を手繰《たぐ》り出すのと一般である。もっと手近い例を取れば、一人の嫌疑者を取調べるにも、
「お前の云うところはここと、ここが矛盾している。これは何故か」
 と突込《つっこ》んで行くと遂には、
「恐れ入りました」
 と服罪するようなもので、理窟は誰でも知っているが実際に扱ってみるとなかなか裏表の使いわけの六ケ敷い、深刻な妙味を持った
前へ 次へ
全236ページ中68ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング