ビール会社征伐
夢野久作

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)周囲《まわり》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)四条|畷《なわて》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)ゴム※[#「毛にょう+(鞠−革)」、第4水準2−78−13]《まり》
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 毎度、酒のお話で申訳ないが、今思い出しても腹の皮がピクピクして来る左党の傑作として記録して置く必要があると思う。
 九州福岡の民政系新聞、九州日報社が政友会万能時代で経営難に陥っていた或る夏の最中の話……玄洋社張りの酒豪や仙骨がズラリと揃っている同社の編集部員一同、月給がキチンキチンと貰えないので酒が飲めない。皆、仕事をする元気もなく机の周囲《まわり》に青褪めた豪傑面を陳列して、アフリアフリと死にかかった川魚みたいな欠伸をリレーしいしい涙ぐんでいる光景は、さながらに飢饉年の村会をそのままである。どうかして存分に美味《うま》い酒を飲む知恵はないかと言うので、出る話はその事バッカリ。そのうちに窮すれば通ずるとでも言うものか、一等呑助の警察廻り君が名案を出した。
 今でも福岡に支社を持っている××麦酒《ビール》会社は当時、九州でも一流の庭球の大選手を網羅していた。九州の実業庭球界でも××麦酒の向う処一敵なしと言う位で、同支社の横に千円ばかり掛けた堂々たる庭球コートを二つ持っていた。
「あの××麦酒に一つ庭球試合を申込んで遣ろうじゃないか」
 と言うと、皆総立ちになって賛成した。
「果して御馳走に麦酒が出るか出ないか」
 と遅疑する者もいたが、
「出なくともモトモトじゃないか」
 と言うので一切の異議を一蹴して、直ぐに電話で相手にチャレンジすると、
「ちょうど選手も揃っております。いつでも宜しい」
 と言う色よい返事である。
「それでは明日が日曜で夕刊がありませんから午前中にお願いしましょう。午後は仕事がありますから……五組で五回ゲーム。午前九時から……結構です。どうぞよろしく……」
 という話が決定《きま》った。麦酒会社でも抜け目はない、新聞社と試合をすれば新聞に記事が出る……広告になると思ったものらしいが、それにしてもこっちの実力がわからないので作戦を立てるのに困ったと言う。
 困った筈である。実はこっちでもヒドイ選手難に陥っていた。モトモトテニスらしいものが出来るのは、正直のところ一滴も酒の飲めない筆者の一組だけで、ほかは皆、支那の兵隊と一般、テニスなんてロクに見た事もない連中が吾も吾もと咽喉《のど》を鳴らして参加するのだから、鬼神壮烈に泣くと言おうか何と言おうか。主将たる筆者が弱り上げ奉ったこと一通りでない。
「オイ。主将。貴様は一滴も飲めないのだから選手たる資格はない。俺が大将になって遣るから貴様は退《の》け。負けたら俺が柔道四段の腕前で相手をタタキ付けて遣るから。なあ」
 と言うようなギャング張りが出て来たりして、主将のアタマがすっかり混乱してしまった。仕方なしにそいつを選手外のマネージャー格に仮装して同行を許すような始末……それから原稿紙にテニス・コートの図を描いて一同に勝敗の理屈を説明し始めたが、真剣に聞く奴は一人もいない。
「やってみたら、わかるだろう」
 とか何とか言ってドンドン帰ってしまったのには呆れた。意気既に敵を呑んでいるらしかった。
 翌る朝の日曜は青々と晴れたステキな庭球日和であった。方々から借り集めたボロラケットの五、六本を束にした奴を筆者が自身に担いで門を出た時には、お負けなしのところ四条|畷《なわて》に向った楠|正行《まさつら》の気持がわかった。それから麦酒会社のコートに来てみると、新しくニガリを打って眩い白線がクッキリと引き廻して在る。その周囲を重役以下男女社員が犇々《ひしひし》と取り囲んで、敵選手の練習を見ている処へ乗り込んだ時には、何かなしに全身を冷汗が流れた。早速の機転で、時間がないからと言って、こっちの選手の練習を謝絶した。
 作戦として筆者の主将組が劈頭《へきとう》に出た。せめて一組でも倒して置きたい。アワよくば優退を残せるかも知れないと言う、自惚まじりの情ない了簡であったが、見事にアテが外れて、向うも主将の結城、本田というナンバー・ワン組が出て来たのには縮み上った。それだけで手も足も出ないまま三―〇のストレートで敗退した。後のミットモナサ……。あんなにもビールが飲みたかったのかと思うと眼頭が熱くなるくらいである。
 先方は揃いの新しいユニフォームをチャンと着ているのに、こちらはワイシャツにセイラ・パンツ、古足袋、汗じみた冬中折れという街頭のアイスクリーム屋式が一番上等で、靴のままコートに上って叱られるもの。派手なメリンスの襦袢に赤い猿又一つ。西洋手拭の頬冠りというチンドン屋式。中には上半身裸体で屑屋みたいな継ぎハギの襤褸《ぼろ》股引を突込んだ向う鉢巻で「サア来い」と躍り出るので、審判に雇われた大学生が腹を抱えて高い腰掛から降りて来るようなこと。むろんラケットの持ち方なんぞ知っていよう筈がない。サーブからして見送りのストライクばかりで、タマタマ当ったと思うと鉄網越しのホームラン……それでも本人は勝ったのか敗けたのか解らないまま、いつまでもコートの上でキョロキョロしている。悠々とゴム※[#「毛にょう+(鞠−革)」、第4水準2−78−13]《まり》を拾ったり何かしているので、相手がコートに匍《は》い付いて笑っているが、それでもまだわからない。
「ナアーンダイ。敗けたのか」
 と頬を膨らましてスゴスゴ引き退るトタンに大爆笑と大拍手が敵味方から一時に湧き返るという、空前絶後の不可思議な盛況裡に、無事に予定の退却となった。
 それから予定の通りにコート外の草原の天幕《テント》張りの中でビールと抓み肴が出た。小使が二人で五十ガロン入の樽を抱えて来た時には選手一同、思わず嬉しそうな顔を見合わせた。同時に主将たる筆者は胸がドキドキとした。インチキが暴露《ばれ》たまま成功したのだから……。
「ええ。樽にすると小さく見えますがね。この樽一つ在れば五十人から百人ぐらいの宴会ならイツモ余りますので……どうぞ御遠慮なくお上り下さい」
 と言う重役連の挨拶であったが、サテ、コップが配られると、さあ飲むわ飲むわ。筆者を除いた九名の選手と仮装マネージャーが、文字通りに長鯨の百川を吸うが如くである。
「ちょっと、コップでは面倒臭いですから、そのジョッキで……」
 と言うなり七合入のジョッキで立て続けに息も吐《つ》かせない。
「お見事ですなあ。もう一つ……」
 と重役の一人が味方の仮装マネージャーを浴びせ倒しに掛かっていたが、ナカナカ腰が砕けない模様である。そのうちに樽の中が泡ばかりになりかけて来ると、重役連中が一人逃げ二人逃げ、しまいには相手の選手までいなくなって、カンカン日の照る草原に天幕と空樽と、コップの林と、入れ代り立ち代り小便をする味方の選手ばかりになってしまった。中にも仮装マネージャーを先頭にラケットを両手に持った三人が、靴穿きのままコートに上って、
「勝った方がええ。勝った方がええ」
 とダンスを踊っている。何が勝ったんだかわからない。苦々しい奴だと思っている筆者を皆して引っぱって、重役室に挨拶に行った。仕方なしに筆者が頭を下げて、
「どうも今日は御馳走様になりまして」
 と言って切り上げようとすると、背後から酔眼朦朧たる仮装マネージャーが前に出て来て、わざとらしい舌なめずりをして見せた。銅羅声を張り上げた。
「ええ。午後の仕事がありませんと、もっとユックリ頂戴したかったのですが、残念です」
 と止刺刀《とどめ》を刺した。
 しかし往来に出るとさすがに一同、帽子を投げ上げラケットを振り廻して感激した。
「××麦酒会社万歳……九州日報万歳……」
「ボールは子供の土産に貰って行きまアス」
 翌日の新聞に記事が出たかどうか記憶しない。



底本:「夢野久作全集7」三一書房
   1970(昭和45)年1月31日第1版第1刷発行
   1992(平成4)年2月29日第1版第12刷発行
初出:「モダン日本 6巻8号」
   1935(昭和10)年8月
入力:川山隆
校正:土屋隆
2007年7月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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終わり
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