くれたのかも知れない……が……いずれにしても今日の午前中、私が色んな書類を夢中になって読んでいるうちに、若林博士がコッソリと立ち去った後にはこの室の中に誰も居なかったのだ。正木博士も、禿頭《はげあたま》の小使も、カステラも、お茶も、絵巻物も、調査書類も、葉巻の煙も何もかも、みんな私の一箇月前の記憶の再現に過ぎないのだ。たった一人で夢遊中の夢遊を繰返していたに過ぎなかったのだ。
……私の頭は、そこまで回復して来たまま、同じ処ばかりをグルグルまわっているのだ。
……そうでないと思おうとしても、そうした不思議な事実の証拠の数々が、現在、生き生きと私の眼の前に展開して、私に迫って来るのをどうしよう。ほかに解決のし方がないのをどうしよう……。
……若林博士は、そうした私の頭を実験するために、一箇月前と同じ手順を繰り返しつつ、私をこの室に連れ込んだものに違いない。そうして多分一箇月|前《ぜん》もそうしたであろう通りに、どこからか私を監視していて、私の夢遊状態の一挙一動を細大洩らさず記録しているに違いない……否々……否々……きょうは、大正十五年の十一月二十日、と云った若林博士の言葉までも嘘だとすれば、私はもっともっと前から……ホントウの「大正十五年の十月二十日」以来、何度も何度も数限りなく、同じ夢遊状態を繰り返させられている事になるではないか……そうしてその一挙一動を記録に残されている事になるではないか………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
……オオ……若林博士こそ世にも恐ろしい学術の権化《ごんげ》なのだ。……精神科学の実験と、法医学の研究とを同時に行っている……。
……極悪人と名探偵とを兼ねている……。
……正木博士と、呉家の運命と、福岡県司法当局と、九大の名誉と……この事件に関する出来事の一切合財をタッタ一人で人知れず支配し、飜弄している……。
……そうして知らん顔をしている怪魔人…………。
[#ここで字下げ終わり]
 私は云い知れぬ戦慄が、全身の皮膚を暴風のように這いまわり、駆けめぐるのを感じ初めた。歯の一枚一枚がカチカチと打ち合うのを止める事が出来なくなった。……部屋の中の全体がどことなく、大きく開いた若林博士の口腔の恰好に似て来たように思いつつ……そのまん中に突立って、煽風機《せんぷうき》のように廻転する自分の頭の中を、眼の奥底に凝視しつつ…………。
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……けれども……。
……けれども、もしそうとすれば、私は是非とも呉一郎でなければならぬ…………。
……お……オオ……私が……アノ呉一郎…………。
……あの正木博士が私の父親……。
……あの千世子が私の母親……。
……そうしてアノ狂える美少女……モヨ子…………モヨ子は…………。
……おお……おお…………。
……私は親を呪い、恋人を呪い、最後に見ず識《し》らずの男女数名の生命《いのち》までも奪うべく運命づけられた、稀有《けう》の狂青年であったのか…………。
……死んだ父親の罪悪を、白昼公然と発《あば》き立てている、冷酷無残な精神病者であったのか……。
[#ここで字下げ終わり]
「アアッ……お父オさア――ン……お母アさ――ン……」
 と叫んだが、その声は自分の耳には這入らなかった。ただ嘲《あざ》けるような反響を室の隅々に聞いただけであった。
 私はそのまま下顎を固張《こわば》らせつつ、森閑《しんかん》とゆらめく電燈の光りを振り返った。大きな歎息をした後のように静まり返っている室の中を見まわした。
 ……意識の力はどこまでもハッキリしたまま……うつつともなく、夢ともなく、私の眼の前の床が向うの方に傾くにつれて、半分《なかば》開いた入口の方向を眼指《めざ》しつつ蹌踉《ひょろひょろ》と歩み出した。
「出入厳禁」と書かれた白紙を扉《ドア》の外から振り返った。
 ……しっかりせねばならぬ……どこまでも理性を働かせねばならぬ……と思いつつ白い月の光りがさし込んでいる窓付きの廊下を、右に左に傾き歩いた。
 玄関の左右に並んだ真暗な階段の左側を、棒のように強直《ごうちょく》しつつ……ゴト――ン……ゴト――ン……という自分の足音を聞きつつ……一段一段と降りて行った。そのおしまいがけに、もう床に行き着いたと思うと、私の足は空を踏んで、全身が軽々とモンドリを打った……ように思う。
 それから私はどうして起き上ったか、どこをどう歩いて行ったかわからない。いつの間にか自然と七号室の扉《ドア》の前に来て、石像のように突立っている私自身を発見した。
 私は何かしら思い出せない事を、一所懸命に考え詰めた揚句《あげく》に、思い切ってその扉を開いて中に這入った。今朝《けさ》のままになっている寝台の上に、靴|穿《ば》きのまま這い上って、仰向けにドタリと寝た。その頭の処で、扉がひとりでに閉まって来て重々しい陰鬱な反響を部屋の内外に轟かした。
 ……すると、それと殆ど同時に、混凝土《コンクリート》の厚い壁を隔てた隣りの六号室から、魂切《たまぎ》るような甲高《かんだか》い女の声が起った。
「兄さん兄さん……兄さんに会わして下さい。今お帰りになったようです。あの扉《ドア》の音がそうです。兄さんに会わして下さい……イイエイイエ……妾《あたし》は狂女《きちがい》じゃありません……兄さんの妹です。妹です妹です……兄さん兄さん。返事して頂戴……妾です妾です妾です妾です」
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………………………………………………………………………………………………………………これが胎児の夢なんだ………………………………………………………………。
……と私は眼を一パイに見開いたまま寝台の上に仰臥して考えた。
……何もかもが胎児の夢なんだ……あの少女の叫び声も……この暗い天井も……あの窓の日の光も……否々……今日中の出来事はみんなそうなんだ……。
……俺はまだ母親の胎内に居るのだ。こんな恐ろしい「胎児の夢」を見て藻掻《もが》き苦しんでいるのだ……。
……そうしてこれから生れ出ると同時に大勢の人を片《かた》ッ端《ぱし》から呪い殺そうとしているのだ……。
……しかしまだ誰も、そんな事は知らないのだ……ただ俺のモノスゴイ胎動を、母親が感じているだけなのだ。
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 私の寝ている横のコンクリートの壁を向側からたたく音がし初めた。
「……兄さん兄さん。一郎兄さん。あなたはまだ妾《あたし》を思い出さないのですか。あたしですあたしです……モヨ子ですよ……モヨ子ですよ。返事して下さい……返事して……」
 と二三度連続して叩いたと思うと、痛々しい泣声にかわって、何かの上にひれ伏した気はいである。
 私は寝台の上に長々と仰臥したまま、死人のように息を詰めていた。眼ばかりを大きく見開いて…………………………………。
 ……ブ…………ンンンンン……
 という時計の音が、廊下の行き当りから聞えて来た。
 隣室《となり》の泣声がピッタリと止んだ。それにつれて又一つ……
 ……ブ――――ン……
 という音が聞えて来た。前よりもこころもち長いような……私は一層大きく眼を見開いた。
 ……ブ――――ン……
 ……という音につれて私の眼の前に、正木博士の骸骨みたような顔が、生汗《なまあせ》をポタポタと滴《た》らしながら鼻眼鏡をかけて出て来た……と思うと、目礼をするように眼を伏せて、力なくニッと笑いつつ消え失せた。
 ……ブ――――ン……
 夥しい髪毛《かみのけ》を振り乱しつつ、下唇を血だらけにした千世子の苦悶の表情が、ツイ鼻の先に現われたが、細紐で首を締め上げられたまま、血走った眼を一パイに見開いて、私の顔をよくよく見定めると、一所懸命で何か云おうとして唇をわななかす間もなく、悲し気に眼を閉じて涙をハラハラと流した。下唇をギリギリと噛んだまま見る見るうちに青褪《あおざ》めて行くうちに、白い眼をすこしばかり見開いたと思うと、ガックリとあおむいた。
 ……ブ――――ン……
 少女浅田シノのグザグザになった後頭部が、黒い液体をドクドクと吐き出しながらうつむいて……。
 ……ブ――――ン……
 八代子の血まみれになった顔が、眼を引き釣らして……。
 ……ブ――ンブ――ンブ――ンブ――ンブ――ン……
 頬を破られたイガ栗頭が……眉間を砕かれたお垂髪《さげ》の娘が……前額部の皮を引き剥がれた鬚《ひげ》だらけの顔が……。
 私は両手で顔を蔽《おお》うた。そのまま寝台から飛び降りた。……一直線に駆け出した。
 すると私の前額部が、何かしら固いものに衝突《ぶっつか》って眼の前がパッと明るくなった。……と思うと又|忽《たちま》ち真暗になった。
 その瞬間に私とソックリの顔が、頭髪《かみのけ》と鬚を蓬々《ぼうぼう》とさして凹《くぼ》んだ瞳《め》をギラギラと輝やかしながら眼の前の暗《やみ》の中に浮き出した。そうして私と顔を合わせると、忽《たちま》ち朱《あか》い大きな口を開いて、カラカラと笑った……が……
「……アッ……呉青秀……」
 と私が叫ぶ間もなく、掻き消すように見えなくなってしまった。
 ……ブウウウ…………ンン…………ンンン…………。



底本:「夢野久作全集9」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年4月22日第1刷発行
   2002(平成14)年9月5日第4刷発行
初出:「ドグラ・マグラ」松柏館書店
   1935(昭和10)年1月15日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※底本では、サイズの異なる文字が数種類使用されています。このファイル中では[#「○○」は本文より△段階大きな文字]という形で注記しています。このファイル中で注記している最大の文字は「6段階大きな文字」です。6段階大きな文字は、高さと幅が本文で使われている文字の2倍強程度の大きさです。
なお、文字の大きさの注記は、論文のタイトルや新聞の見出しを想定している箇所など、文字が本文より特に大きい箇所のみにつけました。
※「キチガイ地獄外道祭文」「十」の葉書中の文字は、底本では「九州帝国大学医学部精神病学教授」が本文より3段階、「斎藤寿八氏自室気付」が2段階、「面黒楼万児宛」が5段階大きくなっています。
葉書中の切手を貼る位置を示す罫は、底本では波線です。
入力:砂場清隆
校正:ドグラマグラを世に出す会
2007年11月29日作成
2009年9月16日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました.入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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