惜しくて惜しくてたまらないような気がしましたので、何心なく本堂に来て、御本尊様をゆすぶって見ますと、どうでしょう。確かに巻物らしいものが這入っているのがコトコトと手に応《こた》えて来ましたので、余りの事にビックリして胸がドキドキしました。
……けれどもこの事を和尚様に話したら一ペンに叱られてしまいましたので、それから一週間ばかり経って後《のち》に、学校の帰りがけにお線香を上げに行く振りをして、御本尊様の首を抜いて、絵巻物を取出して来ました。
……ところがその絵巻物を持って帰って、人の居ない倉庫《おくら》の二階で開いてみますと、思いもかけない怖ろしい、胸がムカムカするような絵ばかりでしたので、私は二度ビックリしまして、直ぐにも御寺に返しに行こうと思いましたが、その時にフト気が付いて絵巻物の表装を見ますと、何ともいえない見事なものなので、返すのが惜しくなりました。そうして、それから後《のち》は一人で留守番をするたんびに、少しずつ裏面《うら》の紙を引き剥《は》いで壊れた幻燈の眼鏡《めがね》で糸の配りを覗いては、絳絹《もみ》の布片《きれ》に写しておりましたが、見付かると大変ですから、作ったものはみんな焼き棄てたり、室見川《むろみがわ》へ流したりしてしまいました。
……そうしてイヨイヨその刺繍の作り方を自分の手に覚え込んでしまいますと、引剥《ひきはが》した紙を旧《もと》の通りに修繕《つくろ》って、絵巻物を御本尊様の胎内に返してしまいましたが、盗む時よりも返す時の方が、よっぽど怖う御座いました……そうして、それから間もなく福岡へ出て来たのですから、絵巻物はやっぱりあの、如月寺《にょげつじ》の弥勒《みろく》様の胎内に在る筈です。
……けれどもこうして吾児《わがこ》というものが出来て見ますと、つくづくあの絵巻物の恐ろしさがわかって来ました。姉のY子でも私のように男の児を生んで、あの絵巻物の在る事を知っているとしましたならば、同じ思いをするにきまっております。虹汀様が、あの絵巻物を焼かれなかった未練なお心を怨むにきまっております。
……とはいえあの絵巻物が在るという事を知っている者は誰もいないのです。たった私一人だけなのです。ですから私の一存で、あの絵巻物を貴方の御学問の研究材料に差上げますから、私の家の血統《ちすじ》を引いた男の児にだけ祟《たた》るという、その恐ろしい、不思議な絵巻物の力を、科学の力で打ち破って、その呪咀《のろい》がこの児にかからないようにして下さい。是非是非お頼みしますから……。
[#ここで字下げ終わり]
……という涙ながらの話だ。
……Mは呆れた。且《か》つ喜んだ。なる程それではイクラ探しても判明《わか》らない筈だ。吾々の捜索方針と絵巻物の隠れ処が、ちょうど鼬《いたち》ゴッコ式に入り違いになって行ったので、二人とも絵巻物の無い方へ無い方へと捜索して行った訳だ。偶然の作用を推理の力で追っかけたんだから見付からないのも無理はない。……なぞと独りで北叟笑《ほくそえ》みながら、T子にも内証でコッソリ姪の浜へ来て、如月寺の本堂へ忍び込んで、御本尊の首を抜いてみると……。
……あとは説明しない……しても説明にならないから……」
「……………」
「裁判長の判断に任せる」
「……………」
「……WとMのその後の行動によって……否、今日只今、この仮法廷に於て……吾輩という検事の論告と、Mという被告の陳述を憑拠《ひょうきょ》として、絵巻物の行衛を推断してもらうよりほかに方法はない」
「……………」
「……Mは黙々として寒風に吹かれながら姪の浜から帰って来た。いつかはその絵巻物の魔力……六体の腐敗美人像に呪咀《のろ》われて……学術の名に於てする実験の十字架に架けられて、うつつない姿に成果《なりは》てるであろう、その可愛らしい男の児の顔を眼の前に彷彿させつつ……同時にその母子《おやこ》の将来に、必然的に落ちかかって来るであろう大悲劇に直面した場合に、ビクともしない覚悟と方針とを考えまわしつつ……」
「……………」
「……彼は松園の隠れ家に何喰わぬ顔をして帰って来ると、何も知らずに添乳《そえぢち》をしているT子に向って誠しやかな出鱈目《でたらめ》を並べた。……絵巻物は和尚か誰かが、取出してどこかに隠したものと見えて、弥勒様の胎内にはモウ見当らなかった。しかしこっちから請求して貰って来る訳にも行かない品物なので、そのまま諦らめて帰って来た。いずれ自分が学士になって大学に奉職する事にでもなったならば、その時に大学の権威で、学術研究の材料として提供させても遅くはないであろう。ところで絵巻物の問題はそれでいいとして、実は自分の故郷の財産の整理がこの歳暮に押し迫っているので、困っている。兎《と》にも角《かく》にも大急ぎで帰って来なければならないのだ。その序《ついで》に、お前達の戸籍の事も都合よく片付けて来たいと思うから、用事が出来たらコレコレ斯様斯様《かようかよう》の処へ通信をするがいい……といったような事で話の辻褄《つじつま》を合わせて、渋々ながら納得をさせると、その翌々日の福岡大学最初の卒業式をスッポカシて上京してしまった。しかもそのまま故郷へは帰らずに東京へ転籍の手続をして、全速力で旅行免状を手に入れて海外に飛び出した。これがこの時、既にMの心中に出来上っていた、来るべき悲劇に対する戦闘準備の第一着手であった。Wにだけわかる宣戦の布告であったのだ」
「……………」
「然るに、これに対するWの応戦態度はというと、頗《すこぶ》る落付き払ったものであった。殊勝気《しゅしょうげ》に白い服を着込んで、母校の研究室に居据ってしまった。そうして一切を洞察していながら、何喰わぬ顔で顕微鏡を覗いていたのであった」
「……………」
「WとMの性格の相違は、その後も引続いて発揮された。すなわちMは、欧米各地の大学校を流れ渡って、心理学や遺伝学、又はその頃から勃興しかけていた精神分析学なぞを研究しつつ、一方に内地の官報や新聞を通じて、Wの動静に注意を払いつつ時季を待っていた。これはその男の児に、Mの苗字を冠《かぶ》せるのを嫌ったのと、モウ一つは、T子の追求を避けるためであった。……というのは女としては珍らしい冴えた頭脳《あたま》を持っているT子がもし、Mの行衛不明と、如月寺の絵巻物の紛失事件を綜合して考えた場合には、遅かれ早かれ或る恐ろしい、一つの疑いに直面《ぶつか》るにきまっている。WとMが何故にあの絵巻物を欲しがったかという理由を色々と考えまわすにきまっている。そうして万に一つも女の頭の敏感さと、母性愛の一所懸命さとで、二人が絵巻物を欲しがっている、そのホントウの下心を想像し得るような事があったならば、何はともあれMに疑いをかけて、眼の色を変えて追いかけて来るであろう。場合によっては国境だろうが何だろうが乗越えて追求しかねない女である事が、Mには解り過ぎるくらい解っていたからである。
……然るにこれに対するWは、それと知ってか知らずにか、相も変らず悠々と落付き払っていた。自分の名前や行動を公々然と曝露していたのは無論のこと、『犯罪心理』だの『二重人格』だの『心理的証跡と物的証跡』なぞいう有名な研究を次から次に発表して、これ見よがしに海外にまで名を揚《あ》げていた……が……これが又、Wの最も得意とする常套手段で、こうしてこの方面に大家の名を売り広めておけば将来、この恐るべき精神科学の実験が行われた暁でも、却《かえ》って世間から疑われない、一種の『精神的|現場不在証明《アリバイ》』になるばかりでなく、事件が発生した時に透《すか》さず飛び込んで行ける口実が出来るという、W一流の両天秤をかけた思い付であったろうと考えられる。いずれにしてもその思切って大胆な、同時に透き通るほど細心な行き方は、後年《のち》になって、その恐るべき実験の経過報告を、当の相手の面前に投出した手口によっても察しられるではないか。
……こうして十年の歳月が飛んだ大正の六年になると、その二三年前から英国に留学していたWが帰朝する。それと知ったMも亦、すぐに後を追うて帰って来たのであるが、このWの留学と、帰朝の時季というのが、Mにとっては仲々の重大問題であった。何故かと云うと外でもない。T子|母子《おやこ》はMに振棄てられた後《のち》の十中八九は松園の隠れ家を引払って、どこかへ姿を隠している筈であるが、たとい天に隠れ、地に潜んでも、その行衛を見逃がすようなWでは絶対にない筈である。……と同時に、もしそのWが、海外に留学するような事があれば、それは取りも直さずWが、T子|母子《おやこ》を確実に掌握し得た証拠になる。換言すればT子|母子《おやこ》がどこかに定住して、当分、動く気遣《きづかい》はないという見込みがハッキリと付けばこそ、安心して留学出来る訳で、そうとすれば又、そのWが帰朝するという事は疑いの眼を以て見れば何かしら、その点に関するWの或る種類の心配か、又は或る種の計劃を発動させる時季が来た事を意味していないとは断言出来ないであろう。今一つ言葉を換えて云えば、MはWのそうした行動によって、T子|母子《おやこ》の行衛を割合に楽に探り出す事が出来る訳で、海外留学中のMが絶えず内地の新聞や官報に気を附けていたというのは、そうした注意が必要だからであった。
……が……しかし、Wがそんな気振《けぶり》でも見せるような男でない事は無論であった。帰朝後はチョットした出張以外には福岡を離れる模様もなく、毎日毎日大学に腰弁をきめ込んでいるうちに、間もなく助教授から教授に進む。引続いて色々な難事件を解決する。名声はいよいよ揚《あが》る。その合間合間には喘息《ぜんそく》が起る……といった調子でなかなか忙がしかったのであるが、しかしその態度は依然として悠々たるもので、彼《か》れもこれ一《ひ》と昔の夢という風に、明暮れ試験管と血液に親しんでいた。
……が……しかし又一方にMも困らなかった。そうしたWの帰朝後の態度から、T子|母子《おやこ》が福岡市を中心とする一日旅程以内の処に住んでいるに違いない事をアラカタ読んでしまっていた。……のみならずT子はまだ三十になるかならずで、相変らず美しいとすれば、どこに居るにしたところが、多少の噂の種にはなっているに相違ない。又その子のIも、父親は誰だかわからないまま無事に母親の膝下《しっか》で育っているとすれば、格別の事情がない限り、Mの計劃通りに母方の姓を名乗っている筈である。年齢は私生児の事だから届出が後《おく》れているかも知れないが、多分、尋常校の三四年程度であろうという事が帰朝当時から見当が附いていた。あとは足まかせの根気任せというので、福岡を中心としたWの出張先を第一の目標として、虱殺《しらみつぶ》しに調べて行くと、果せる哉《かな》、帰朝後半年も経たぬうちに、直方小学校の七夕会の陳列室で、五年生の成績品のうちにIの名前を発見した。もっともその時までMはウッカリしていて、Iの成績が抜群の結果、年齢《とし》はまだ十一歳のままに、一級飛んだ五年生になっている事に気付かずにいたので、もしかすると別人ではないかと疑ってみた事であった。
……が……そこに如何なる天意が動いたのであろう。間もなくその陳列室へ這入って来た一人の生徒が、偶然にも背後《うしろ》を振り返った視線がピッタリとMの視線と行き合ったのであったが、その時にMは、吾ともなく視線を背向《そむ》けずにはおられなかった。逃げるようにして校門を出ると、思わず眼を蔽うて、科学者としての自分の生涯を呪わずにはおられなかった。その生徒が全くの母親似で、眼鼻立ちから風付《ふうつ》きのどこにも、Wの子らしい面影がないと同時に、Mに似たところさえもなかった事を思い確かめて、ホウと安心の溜息を吐《つ》きながらも、直ぐに後から、その溜息を呪咀《のろ》わずにはおられなかった。……遠からず学術実験の十字架に架けられて、無残な姿に変るであろうその児の顔立ちの、抜ける程可愛らしくて綺麗であったこと……その発育の円満であったこ
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