ない。若林はサッキからこの一点でタッタ一つの大失敗を演じているんだ。彼奴《きゃつ》は先刻《さっき》、この室に這入ると間もなく、吾輩がこの大暖炉の中で焼き棄てた著述の原稿の、焦《こ》げ臭いにおいを嗅ぎ付けたに違いないのだ。それからこの遺言書をこの卓子《テーブル》の上で見付けると直ぐに一つのトリックを思い付て、その通りに君へ説明をしたんだ」
「……でも……けれども……今日は先生がお亡くなりになってから一箇月後の十一月二十日だと……」
「チェッ……仕様《しよう》がないな。ドウモそういう風にどこまでも先入主になって来られちゃ敵《かな》わない……いいかい。聞き給え……こうなんだよ」
 と噛んで含めるように云いつつ正木博士はさも忌々《いまいま》し気に、舌に粘り付いた葉巻の屑を床の上に吐き棄てた。それから机の上にのしかかって両肱《りょうひじ》を立てると、呆然となっている私の鼻の先に、煙草の脂《やに》で黄色くなった右手の指を突きつけて一句一句私の頭の中へ押し込むようにして説明した。
「いいかね。よく聞き給えよ。間違わないようにね……今日は吾輩の死後一箇月目だなんて、あられもないヨタを若林が飛ばしたのは、君を騒がせないための小細工に過ぎないんだよ。いいかね……もし吾輩がこの遺言書をこんな風に書きさしたまま、どこかへ消え失せてから、まだ幾時間も経っていないという事が君にわかれば、君はキット吾輩が自殺に出かけたものと思ってハラハラするだろう。又実際そうとなったら彼奴《きゃつ》だってジッとしてはおられまい。友人の義務としても、又は、学部長の責任としても否応《いやおう》なしに万事を打ち棄てて、吾輩の行衛《ゆくえ》を突き止めて、自殺を喰い止めなくちゃならない事になるだろう。……ところで又そうなると若林は、自分の手一つで君の過去の記憶を呼び返させ得る唯一無二の機会を失う事になるかも知れないだろう……ね……そうだろう……君が過去の記憶を思い出すか出さないかは、若林の身にとってみると生涯の一大事になる訳があるんだからね。しかも今朝《けさ》が絶好の機会と来ているんだから……」
「……………」
「……だから若林は、吾輩がどこからか耳を澄ましているのをチャント知り抜いていながら、今日はこの遺言書が書かれてから一箇月後の十一月二十日だなぞと、法医学者にも似合わない尻の割れた出鱈目《でたらめ》を云って、とにも角にも君を落ち付かせようとしたんだ。そうしてゆっくりとこの実験を遂《と》げて、呉一郎としての君の記憶を回復させさえすれば、モウ何もかもこっちのものだと考え付いたんだ。……君が若林の見込み通りに、呉一郎としての過去の記憶を回復しさえすれば、その次に、かく云う吾輩を君の不倶戴天《ふぐたいてん》の親の仇、兼、女房の仇と認めさせる位の事は、説明の仕様で何の雑作もない事になるんだからね。……又、実際吾輩は有難い事に精神科学者なんだから、何も知らない呉一郎に催眠術でもかけて、親や女房を絞め殺させて、これだけの実験材料を拵《こしら》え上げる位の仕事はいつでも出来る自信があるんだからね。この事件の嫌疑者には持って来いの人物なんだ。ね。そうだろう」
「……………」
「そうして、もし又、万が一にもその実験がうまく行かなかったらだね。……つまりそんな書類を君に読ませても、君自身が何にも思い出さなかったら、最後の手段を用いてくれよう……今度は君に気付かれないようにソット姿を隠して、あとからキットここに出て来るに違いないであろう吾輩と君を突き合わせて、吾輩の顔を君が思い出すか出さないか……そうして思い出したら、その印象によって君自身の過去の記憶が回復されるかどうかを試験してやろう……そうして万が一にもその試験がうまく行ったら、窮極するところ、吾輩の力で吾輩を恐れ入らしてやろうという、実に巧妙|辛辣《しんらつ》を極めた計略を謀《たく》らんだ訳だ。その辺の呼吸の鋭どい事というものは、実に彼奴《きゃつ》一流の専売特許なんだよ。いいかい」
「……………」
「元来|彼奴《きゃつ》はコンナ策略にかけては独特のスゴ腕を持っているんだ。ドンナに身に覚えのない嫌疑者でも、彼奴の手に引っかかって責め立てられて来ると、頭がゴチャゴチャになって、考え切れないような心理状態に陥ってしまうんだ。とうとうしまいには何が何だかわからなくなったり、到底逃れられぬと観念したり、そうかと思うと慌てた奴は、成程|御尤《ごもっと》も千万と感心してしまったりして、知りもしない罪を引き受けたりする位だからね。近頃|亜米利加《アメリカ》で八釜《やかま》しい第三等の訊問法なんかは屁《へ》の河童《かっぱ》だ。彼奴《きゃつ》の使う手は第一等から第百等まで、ありとあらゆる裏表を使い別けて来るんだから堪《たま》らない。……現に今だってそうだ。仮りに吾輩が彼奴の見込み通りに斎藤先生を殺して、その後釜《あとがま》に座って、コンナ実験をこころみて失敗をして自殺を思い立った人間とするかね。その吾輩がどこからか耳を澄ましている前で、だんだんと吾輩がそんな大悪人と認められて来るように……そうして君自身が、その吾輩の当の怨敵である呉一郎自身と認められて来るように、合理的に話が進められて行く。同時に、その吾輩の生涯を賭《と》した事業の功績が、スウーッと奪い去られて行くのを、手も足も出ないまま見たり聞いたりしていなければならない状態に陥って行くとしたら、吾輩にとってコレ以上の拷問があり得るかドウか考えてみるがいい。そのまま黙って自殺するか、飛び出して来て白状するか、二つに一つの道しかないだろうじゃないか……彼奴、若林の遣り口は早い話がザットこんな塩梅《あんばい》式だから堪らないのだ。ドンナ難事件でも一旦彼奴の手にかけるとなると、キットどこからか犯人をヒネリ出して来る。そのために彼奴が『迷宮破り』なぞと新聞に唄われている事実の裏面には、こうした消息が潜《ひそ》んでいるんだよ」
「……………」
「ところがだ。ところが今度という今度ばかりはそう行かないらしいんだ。今朝から連続的にこころみて来た彼奴の実験が、一々見込み外れになってしまって、君自身に何等の反応を現わさなかったばかりでなく、彼奴お得意の訊問法のトリックが、コンナ風にテッペンから尻を割っているところを見ると、そんなに恐怖《おっかな》がる程の事もないようだね。……流石《さすが》の古今無双の法医学者先生も、相手が吾輩というので緊張し過ぎたせいか、今朝から少々慌てて御座るようだ。或はこれこそ先生の『空前絶後の失敗』かも知れないがね。ハッハッ……」
「でも……でも……でも……」
「まだ『でも』が残っているのかい……何だい……その『でも』は……」
「……でも……その実験は先生がなさるのが当り前……」
「そうさ。無論、君の過去を思い出させる実験は吾輩がやるのが当然さ。だから彼奴《きゃつ》はこんなトリックを用いて、この実験の結果を独り占めにしようとしたんだ……彼奴は出来る限り吾輩を見殺しにしようとしたんだよ」
「エッ……ソ……そんな無茶な事が……」
「チャント実行されているから面白いだろう。第一吾輩が、その手を喰わずに、こうやって生き長らえて、ここへ出て来て喋舌《しゃべ》っているのが何よりの証拠じゃないか」
 こう云い終ると正木博士は、如何にも憎々しい、皮肉を極めた冷笑を浮めた。回転椅子の上に反《そ》りかえって傲然《ごうぜん》と腕を組んだ。葉巻の煙を高々と吹き上げつつ嘯《うそぶ》いた。恰《あたか》も若林博士が、どこからか耳を澄まして聞いているのをチャント予期しているかのように……。
 それを見ると私の心臓は又も、新しい恐怖に打たれて、一たまりもなく縮み上がってしまったのであった。……何という物凄い両博士の闘いであろう。何という深刻執拗な智慧比べであろう。今の今まで、そんな恐ろしい闘争の間に自分自身が挟まれている事を夢にも知らなかった私は……今の今まで見て来た苦しさや、せつなさ、恐ろしさや物狂おしさなぞが、みんなこの二人の博士の悪魔のようなトリックの引っかけ合いに引っかけられて、引きずりまわされて来たせいである事を、初めて気が付いた私は……もう悲鳴をあげて逃げ出したいような衝動に満ち充《み》たされてしまったのであった。今にも立ち上りそうに腰を浮かしかけたのであった。……が……。
 ……しかしこの時の私は、どうしたわけか一寸も椅子から離れる事が出来なかった。額にニジミ出る汗をハンカチで拭いつつ、又も腰を落ちつけてため息した。そうして、正木博士の顔を一心に凝視しつつ、その黒ずんだ、気味のわるい唇が動き出すのを、生命《いのち》がけの気持ちで待っていなければならぬような心理状態に陥ってしまったのであった。……それは恐らく、この二人の博士が、全力というよりも寧《むし》ろ死力を竭《つく》して奪い合っているほどの怪奇を極めた精神科学の実験そのものの魅力のために私の魂がもう、スッカリ吸い付けられてしまっていたせいかも知れない……その話の底を流るる形容の出来ない不可思議な真実性が、グッと私の心臓を引っ掴んで、云い知れぬ好奇心の血を波打たせているせいかも知れない。……なぞと……そんな事を考えつつ茫然として、眼の前の空間を凝視している私の耳元に、又も咳一咳《がいいちがい》した正木博士の声が、新しく、活《い》き活きと響いて来た。

「ハハハハハハ……どうだい。もうわかったかい、錯覚の原因が……ウン。わかった。……併《しか》しまだ少々解らないところが在るだろう。ウン。在る……なかなか頭がいいね。……第一そこに居る君自身が、どこの何という青年で、如何なる因果因縁でもってこの事件に捲込まれるに到ったか……という事が君にはテンキリ解っていない筈だからね。ハッハッハッ……しかし心配し給うな。吾輩がこれから話すことを聞いておれば、一切の疑問が櫛の歯で梳《す》くようにパラリと解けて来る。その話というのは、少々重複するかも知れないが、その吾輩の遺言書の続きになる話で、この実験に関する吾輩と若林の過去の秘密から、だんだんと呉一郎の心理遺伝の内容に立ち入って行って、一番おしまいに君自身が何者であるかという事が、やっとわかる段取りになるのだ。尤《もっと》もその途中で君自身が自分の身の上を感付くとすれば止むを得ない。話はそれ切りの芽出度《めでた》し芽出度しになる訳だが、その時はその時として、まずそれまでのお楽しみとして聞いていたまえ。……しかし、もう一度念を押しておくが、もうこの上に尚《なお》、錯覚を起したりしちゃいけないよ。吾輩が幽霊だとか、吾輩が死んでから一箇月目だとかいうような飛んでもない気もちになってくれちゃ困るよ。ハッハッハッ、いいかい。これから先の話を聞いてそんな錯覚や妄想に陥ると、もう永久に取り返しが付かなくなるかも知れないからね。いいかい……ほんとに大丈夫かい。……ウンよしよし。それじゃ安心して話を進めるが……」
 と云い云い正木博士は消えかけた葉巻に火をつけた。それからポケットに両手を突込んでサモ美味《うま》そうにスパスパと吸立てたが、軈《やが》て葉巻を啣《くわ》え直すと、濛々《もうもう》たる煙の中にヤッコラサと座り直した。
「……ところでだ。……ところで、こいつはいずれ社会に曝露される事と思うから、その時に新聞で見ればわかるが……否《いや》。もう昨日《きのう》の夕刊か、今朝あたりの新聞に出ているかも知れないが……実は、昨日、あの狂人の解放治療場に一大事変が勃発したのだ。つまり吾輩がこの事件を中心とする心理遺伝の実験の結論をつけるために、あの解放治療場の精神病者の群れの中に仕掛けておいた精神科学応用の爆弾の導火線が、この間からジリジリと燃え詰《つま》って来たのが、昨日の正午――すなわち大正十五年の十月の十九日の午砲《ドン》が鳴ると殆ど同時に物の美事に爆発したのだ……ナアニ。種を明かせば何でもない。その導火線というのは一挺の鍬に仕かけてあったに過ぎないのだが、何といっても精神科学を応用した導火線で煙も立てず、火も見えないのだから普通人の眼には
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