の上に組んで反《そ》りかえっている……骸骨ソックリの小男……それが私と視線を合わせると、悠々と葉巻を右手に取りながら、真白な歯を一パイに剥《む》き出してクワッと笑った。
 私は飛び上った。
「ワッ……正木先生……」
「アハハハハハ……驚いたか……ハハハハハハハ。イヤ豪《えら》い豪い。吾輩の名前をチャンと記憶していたのは豪い。おまけに幽霊と間違えて逃げ出さないところはイヨイヨ感心だ。ハッハッハッハッハッ。アッハッハッハッ」
 私はその笑い声の反響に取り捲かれているうちに全身が、おのずと痺《しび》れて行くように感じた。右手に掴んでいた正木博士の遺言書をパタリと大|卓子《テーブル》の上に取り落した……と同時に、それを書いた正木博士の出現によって、今朝《けさ》からの出来事の一切合財がキレイに否定されてしまったような気がして、急に全身の力が抜けて来て、又も、元の廻転椅子の中へ、ドタンと尻餅を突いてしまった。幾度も幾度も唾液《つば》を呑みながら……。
 そうした私の態度を見ると、正木博士はいよいよ愉快そうに、椅子の上に反《そ》りかえって哄笑した。
「アッハッハッハッハッ。ヒドク吃驚《びっくり》しているじゃないか。アハハハハハ。何もそう魂消《たまげ》る事はないんだよ。君は今、飛んでもない錯覚に陥っているんだよ」
「……飛んでもない……錯覚……」
「……まだわからないかね。フフフフフ。それじゃ考えてみたまえ。君は先程……八時前だったと思うが……若林に連れられてこの室《へや》に来てから色んな話を聞かされたろう。吾輩が死んでから一箇月目だとか何とか……ウンウン……あのカレンダーの日附けがドウとかコウとか……ハハハハハ驚いたか、何でも知っているんだからな……吾輩は……。それから君がその『キチガイ地獄の祭文』だの『胎児の夢』だの新聞記事だの、遺言書だのを読まされているうちに、吾輩はもう夙《と》っくの昔の一箇月前に死んでいるものと、本当に思い込んでしまったろう……そうだろう」
「……………」
「アハハハハハ。ところがソイツは折角だが若林のヨタなんだ。君は若林のペテンにマンマと首尾よく引っかかってしまっているんだ。その証拠に見たまえ。その遺言書の一番おしまいの処を見ればわかる。ちょうどそこの処が開《あ》いているだろう。……どうだい……昨夜から吾輩が夜通しがかりで書いていた証拠に、まだ青々としたインキの匂いがしているだろう。ハハハハハ。どんなもんだい。遺言書というものは、是非とも本人が死んだ後から現われて来なければならぬものと、きまってやしないぜ。吾輩がまだ生きていたって、何も不思議はなかろうじゃないか。アッハッハッハッハッ」
「……………」
 私は開《あ》いた口が閉《ふさ》がらなかった。正木、若林の両博士が、何のためにコンナ奇妙なイタズラをするのかと思い迷った。悪戯《いたずら》にしても余りに奇妙な、不合理な事ばかり……一体|今朝《けさ》から見た色んな出来事や、様々の書類の内容は、みんな真剣な事実なのか知らん。それとも二人の博士が馴れ合いで、私を戯弄《からか》うために仕組んだ、芝居に過ぎないのじゃないかしらん……と……そんな風に考えまわして来るうちに、今の今まで私の頭の中に一パイになっていた感激や、驚きや、好奇心なぞの山積が、同時にユラユラグラグラと崩れ初めて、自分の身体《からだ》と一緒にスウーとどこかへ消え失せて行くように感じたのであった。
 それをジッと踏みこたえて、大|卓子《テーブル》の端に両手をシッカリと突いた私は、鼻の先にニヤニヤしている正木博士の顔を、夢のようにボンヤリと眺めていた。
「ウッフッフッフッフッ」
 と正木博士は噴飯《ふきだ》した。その拍子に嚥《の》み込みかけていた葉巻の煙に咽《む》せて、苦しさと可笑《おか》しさをゴッチャにした表情をしながら、慌てて鼻眼鏡を押え付けた。
「アッハッハッハッハッ……ゴホンゴホン……妙な顔をしているじゃないか……ウフフフフフフ是非とも吾輩が死んでいないと具合がわるいと……ゲッヘンゲッヘン……云うのかね。ゲヘゲヘ弱ったなドウモ……こうなんだよ。いいかい。君は今朝早く……多分午前一時頃だったと思うが、あの七号室のまん中に大の字|形《なり》に寝ていた。そうして眼を醒ますと、イキナリ自分の名前を忘れているのに驚いて、タッタ一人で騒ぎ廻ったろう」
「……エッ……どうしてそれを御存じ……」
「御存じにも何も大きな声を出して怒鳴《どな》り散らしたじゃないか。他の奴はみんな寝ていたが、この室《へや》でこの遺言書を書いていた吾輩が聞き付けて行ってみると、君はあの七号室で、一所懸命に自分の名前を探しまわっている様子だ。……扨《さて》はヤット今までの夢遊状態から醒めかけているんだナ……と思って、なおも大急ぎで遺言書を書き上げるべく、二階へ引返して来た訳だが、そのうちに夜が明けてから、やっと居睡《いねむ》りから眼を醒ました吾輩が、少々気抜けの体《てい》でボンヤリしていると、間もなく若林が例の新式サイレンの自動車で馳け付けて来る様子だ。……こいつは面黒《おもくろ》い。君が夢中遊行の状態から醒めかけている事を、早くも誰かが発見して若林に報告したと見える。ナカナカ機敏なものだが、扨《さて》馳け付けて来てドウするつもりか……となおも物蔭から様子を見ていると、若林は君の頭を散髪さして湯に入れて、堂々たる大学生の姿に仕立て上げてから、君の室《へや》と隣り合わせの六号室に入院している一人の美少女に引き合わせたろう。……しかも、それは君の許嫁《いいなずけ》だというのでスッカリ君を面喰《めんく》らわせたろう」
「エッ……それじゃあの娘は、やっぱり精神病患者……」
「そうさ。しかも学界の珍とするに足る精神異状さ。大事の大事の結婚式の前の晩にカンジンカナメの花婿さんから、思いもかけぬ『変態性慾の心理遺伝』なぞいう途方《とほう》トテツもない夢遊発作を見せられたために、吾れ知らずその夢遊発作の暗示作用に引っかけられて、その花婿さんと同じ系統の心理遺伝の発作を起して、とりあえず仮死の状態に陥ってしまった。ところが、若林の怪手腕によって、そこから息を吹き返して来ると、今度は千年も前に死んだ玄宗皇帝や楊貴妃を慕ったり、居もしない姉さんに済まないと云い出したり、又は赤ん坊を抱く真似をして、お前は日本人になるんだよと云ったりしていた……尤《もっと》も今では、よほど正気付いてはいるがね……」
「……ソ……それじゃ……ア……あの娘の……名前は……何というので……」
「ナニ。名前……聞かなくたってわかっているだろう。音に聞えた姪の浜小町さ……呉モヨ子さ……」
「……エッ……ソ……それじゃ……僕は呉一郎……」
 私が、こう云いかけた時、正木博士はその大きなへの字口をピッタリと噤《つぐ》んだ。葉巻の煙に顔をしかめ[#「しかめ」に傍点]たまま、黒い瞳の焦点をピッタリと私の顔に静止さした。
 私は全身の血が見る見る心臓へ集中して、消え込んで行くように感じた。額から生汗がポタポタと滴《したた》り落ちて、唇がわなわなとふるえ出して、又もフラフラとなりかけたように思った。大|卓子《テーブル》に両手を支えて立っている自分の身体《からだ》が空気と一緒に散り薄れて、あとにはただ眼の球《たま》だけが消え残ってシッカリと正木博士を凝視しているような……そんな気持ちの中に私の魂は、無限の時間と空間の中を、死ぬほどの高速度で駈けめぐっていた……呉一郎としての自分の過去を、もしや思い出しはしまいかと恐れ戦きつつ……自分の肺臓と心臓が、どこかわからぬ遠い処から、大浪を打たせて責めかかって来る音に耳を澄ましつつ……ワナワナブルブルと戦きふるえていた。
 けれども……その心臓と肺臓がイクラ騒ぎ立てて、喘《あえ》ぎまわっても、私の魂はどうしても、呉一郎としての過去の思い出を喚び起し得なかった。そのあいだに何遍頭の中で繰り返したか知れない、「呉一郎」という名前に対して「これが自分の名前だ」というような懐《なつ》かし味や親しみが微塵《みじん》ほども感ぜられなかった。私の過去の記憶はイクラ考え直しても、今朝《けさ》暗いうちに聞いた「ブーン」という音のところまで溯《さかのぼ》って来ると、ソレッキリ行き詰まりになって終《しま》うのであった。……私は他人が何と思おうとも……どんな証拠を見せつけられようとも、自分自身を呉一郎と認める事が出来ないのであった。
 ……私はホーッと深いため息を一つした。それと一緒に全身の意識が次第次第に私のまわりに立ち帰って来た。心臓と肺臓の波動が静まり初めた。やがてドタリと椅子の上に腰をかけるトタンに、両方の腋の下からタラタラと冷汗が滴《した》たった。
 すると、それと同時に私の鼻の先で、澄まし返った顔をしていた正木博士はプーッと一服、紫の煙を吹き出した。
「どうだい。自分の過去を思い出したかい」
 私は無言のまま頭を左右に振った。そうしてポケットから新しいハンカチを引き出して顔の汗を拭いているうちに、よほど気が落ち付いて来たように思った。……しかし、それにしても訳のわからない事があんまり多過ぎるようで、身動きするのさえ恐ろしくなりつつ、椅子の中へヒッソリと居《い》ずくまった。……と……間もなく正木博士が大きな咳払いを一つしたので私は又ビックリして飛び上りそうになった。
「……エヘン……思い出さなければモウ一度云って聞かせるが、いいかい……気を落ち付けてよく聞きたまえよ。君は現在、一つのトリックに引っかけられているのだよ。つまり……吾輩の同輩若林鏡太郎博士は、君自身を呉一郎と認めさせて、充分に間違いのない事を確信させた上で、吾輩に面会させようとしているのだ。そうして吾輩をこの世に二人といない、極悪無道の人非人《にんぴにん》として君に指摘させようとしているのだよ」
「エッ。あなたを……」
「ウン。まあ聞け。君がよく気を落ちつけて、今朝《けさ》から起った出来事を今一度ハッキリと頭の中で考え合わせて来さえすれば、万事が何の苦もなく解決するのだ。……いいかい」
 正木博士は改めて真面目に帰ったように、落ち付いた調子で咳一咳《がいいちがい》した。椅子の上に反《そ》り返って濃い煙をあとからあとから吹き上げると、悠然として大暖炉の横にかかったカレンダーを振り返った。
「いいかい。改めて云っておくが、今日は大正十五年の十月二十日だよ。いいかい。もう一度、繰り返して云っておく。きょうは大正十五年の十月二十日……この遺言書に書いてある通り、呉一郎が一個月振でこの解放治療場にヒョックリと出て来て、鉢巻儀作爺の畠打ちを見物していた、十月十九日のその翌日なんだよ。……その証拠にあのカレンダーを見たまえ。……OCTOBER……19……すなわち昨日《きのう》の日付になっている。これは吾輩が昨日からあまり忙がしかったので、あの一枚を破るのを忘れていたからで、同時に吾輩が昨日から徹夜してここに居た事を証明しているのだ……いいかい。解ったね。……それから、序《ついで》に吾輩の頭の上の電気時計を見たまえ。今は十時十三分だろう。ウン。吾輩のとピッタリ合っている。つまり吾輩が今朝になって、その遺言書を書きさしたまま、居睡《いねむ》りを初めてから、まだ五時間しか経過していない理窟になるんだ。……こうした事実と、その遺言書のおしまいの処のインキがまだ青々としている事実とを綜合したら、吾輩がこうしてケロリとしていたって別に不思議がる事はなかろうじゃないか。いいかい、……この点をまずシッカリ頭に入れとかないと、あとで又大変な錯覚に陥るかも知れない虞《おそれ》があるんだよ」
「……しかし……若林先生が先刻《さっき》……」
「いけない……」
 と一際《ひときわ》大きな声で云ううちに、正木博士の右手の拳骨《げんこつ》が高く揚がると、私の頭の中の迷いを一気にたたき除《の》けるように空間で躍った。……活溌な……万事を打ち消すような元気を横溢《おういつ》さして……。
「いけない。吾輩の云う事を信じ給え。若林の云う事を本当にしてはいけ
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