でもよくわかる品物であらわしてあるので、吾輩が調査記録した書類の中にも、そんな例が山を積む程ある。
ところで、こんな暗示の怖るべき作用を、学理的に研究して、ドシドシ実際に応用する事が出来るとなったら、ドンナ事になるだろう。犬山|道節《どうせつ》、石川五右衛門、天竺《てんじく》徳兵衛、自来也《じらいや》以上の幻魔術が現代に行われ得る事になりはしまいか。
それ程でなくとも、この種類の暗示を巧みに利用すると、出会い頭に他人を発狂させる事が出来る。無調法な現代の科学応用の兇器みたように、音を立てたり血を流したりしないから、白昼の往来で傍《そば》を通っている者でも怪しまない。当代の如何なる名探偵が駈け付けて来ても全然|目星《めぼし》の付けようのない犯罪が行える……否、現在そこいらでドシドシ行われているとしたらどうだね。
フフフフ……そんなに固くなって座り直さなくともいい。イクラ吾輩が精神科学の大家でも、このスクリーンの中から暗示を与えて、満場の諸君を一斉に発狂させる術は、まだ発見していないからね。尤《もっと》も、そんな事が出来たら面白いだろう……とは思っているんだが……ハッハッハッ……。
イヤ、これは冗談だが、こうした犯罪手段は既に、空想や、推測の範囲を通り越して、眼の前の問題となって来ている。事実は常に研究に先立って存在するものである……と云ったらチョット眉に唾液《つばき》を付けてみたくなるであろう。
ところが驚く勿《なか》れだ。現に吾輩の畏友《いゆう》、九州帝国大学医学部長、若林鏡太郎《わかばやしきょうたろう》君の名著『精神科学応用の犯罪とその証跡』と題する草稿の中に、緒論として、コンナ愚痴《ぐち》が並べてある。ちょうどその緒論だけが、吾輩の処へ校閲を頼んで来ているから、ちょいと失敬して抜き読みをしてみると、コンナあんばいだ。……曰《いわ》く……
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――余ノ調査研究セルトコロニ依《よ》レバ、既ニ往昔《おうせき》ヨリコノ種ノ犯罪ガ行ワレツツアリシ事実ヲ認ムルヲ得ベシ。例エバ役行者(えんのぎょうじゃ)、阿部晴明(あべのせいめい)、弘法大師等ノ密教、陰陽術ノ流《ながれ》ヲ伝ウル者、真言秘密ノ行者、修験者《よげんじゃ》、祈祷師、代人、巫女《みこ》、ソノ他、何々教、何々様ト称スル神仏類似ノモノニ奉仕スル輩ノ中ニハ、積年ノ経験ヨリ得タル一種ノ精神科学的ノ暗示法ヲ口伝《くでん》心伝シオリ、コレヲ理智、理性ノ発達不充分ナル女子、小児、モシクハ無智、蒙昧《もうまい》ナル男子等ニ応用シテ、ソノ精神作用ニ何等カノ変化、傷害ヲ与エツツ、利得ヲ恣《ほしいまま》ニセシ形跡アリ、即チ、古来伝ウルトコロノ「狐ヲ使ウ」「真言秘密ノ呪法《じゅほう》ニカケル」又ハ「生霊、死霊ヲ憑《つ》ケル」「神罰、仏罰ヲ当テル」等ノ霊験、神業《かみわざ》、行力《ぎょうりき》等ニ類似シタル所業ハ、精神科学ノ立場ヨリ見ルモ絶対不可能ノ事ニ非《あら》ザレバナリ、ソノ高等ナルモノニ到リテハ、催眠術、心霊術、降神術等ノ技術者ガ、文明社会ノ裏面ニ於テ異常ナル勢力ヲ保有シオリ、玄怪ニシテ捕捉シ難キ犯罪事件ノ裏面ニ往々ニシテコノ種ノ技術ノ活躍セル証拠ヲ見ルトキハ、ソノ全部ガ理智的詐術ナリトハ断ジ難《かた》キモノアリ――
――現今、我国内ニ於テモ、到ル処ノ精神病院、行路病者収容所、又ハ街頭ヲ彷徨《ほうこう》スル精神異常者ノ中ニ、カカル犯罪行為ノ犠牲者ガ存在シオラズトハ断言シ難シ、唯《ただ》、コレヲ合理的ニ探査追求シテ、犯人ヲ検挙スル事ガ、目下ノトコロ、殆ンド不可能ナルガタメニ、実例トシテ列挙シ難キノミ。何トナレバ、此《かく》ノ如キ手段ヲ用イテ、精神的ニ人ヲ殺傷スル場合ニハ、他ノ犯罪手段ニ於ケルガ如キ物的証拠ヲ厘毫《りんごう》モ留メズ、一滴ノ血、一|刹那《せつな》ノ音響、一片ノ煙ダモ認ムル能《あた》ワザルノミナラズ、当該被害者モ亦《また》、直チニ一切ノ証言ヲ為シ得ベキ資格ヲ喪失スルト同時ニ、ソノ精神ノ異状ヲ回復セムガタメニハカナリノ長日月ヲ要シ、又ハ永久ニ回復セズ、万一コレヲ回復スルモ、ソノ被害当時ノ回想、又ハ犯罪手段ニ対スル記憶ノ残留セルモノアリヤ否ヤ、甚《はなは》ダ疑問トスベキモノアリ、調査上甚シキ困難ニ遭遇スベキ事、予想ニ難カラザレバナリ――
――思ウニ現代ノ文化ハ所謂《いわゆる》、唯物科学ノ文化ナリ。故ニ、随《したが》ッテソノ間《かん》ニ行ワルル犯罪ノ種類モ亦《また》、唯物科学ノ原理ヲ応用セルモノ多カルベキハ自然ノ理ナリ。然《しか》レバ将来、精神科学ノ諸般ノ学理ガ、一般ノ常識トシテ普及スルニ到ラムカ、同様ニコレヲ応用セル犯罪ガ、旺盛ナル流行ヲ示スベキハ論ヲ俟《ま》タザルベク、而《しか》シテソノ犯行ノ恐怖、戦慄ニ値スベキ事、現代ノ所謂、唯物科学応用ノ犯罪ノ比ニ非《あら》ザルベキモ亦自明ノ理ナルベシ。而シテ此《かく》ノ如キ犯罪ニ対シテ、吾人法医学者ハ、如何ニシテ犯罪ヲ調査シ、兇器ヲ研究スベキヤ。如何ナル基礎知識ニ照シテ、犯行ノ径路、手段ノ内容ヲ明カニスベキヤ――云々――
[#ここで字下げ終わり]
……どうです諸君。吾が畏敬すべき法医学者、若林鏡太郎君は、遠からず全世界に大流行を来《きた》すべき「精神科学応用の犯罪」を研究して、その流行を未然に喰い止めるべく、その実例を蚤取眼《のみとりまなこ》で探している。その犯罪の被害者らしい精神病者や自殺者が、地上到る処にウヨウヨしているに拘わらず、その犯行の手がかりとなるべき暗示材料、その他の証拠が見当らないために、本当の研究が発表出来ないという悲惨事に直面して、あらゆる苦心惨憺を続けている。そうして、あらゆる人間の身振り、素振り、眼付き、手付き、口つき、言葉つきの端々《はしばし》に到るまでも、精神科学応用の犯罪ではないかと疑い続けているのだ。
……然《しか》るにだ……。
……諸君どうです……。
ここに一つドエライ研究材料が、吾輩の処へ転がり込んで来たものだ。……もっともコイツを最初に発見したのは、今の若林鏡太郎君で、同君はこれを空前の「精神科学応用の犯罪」に相違ないと睨んで、調査を遂《と》げて来たものなんだが、一方に、吾輩の所謂「心理遺伝」の参考材料としても、その価値は形容の出来ない程に素晴らしいものがある。しかも、そいつに釣り込まれて、ウッカリ手を出したのが運の尽きで、流石《さすが》の吾輩も十万億土行きの片道切符を買って、裸一貫で逃げ出さなければならない破目に立到ったほど、それほど左様に恐しい研究材料だったのだ。……その発狂の動機となっているモノスゴイ暗示材料の正体は勿論の事、その心理遺伝に支配された夢中遊行開始前後の怪奇、悽愴《せいそう》を極めた状況。もしくは心臓がトロトロと溶解して、流れて行くくらい気持のいい、心理遺伝の内容の詳細まで、何一つ遺憾なく完備した、途方もない調査記録が手に這入《はい》ったのだ。実に、国宝とも世界宝とも何とも言いようのない……極度に科学的で、徹底的にローマンチックな、エロ、グロ、ノンセンス共に百二十パーセント以上の含有量をもった……空前絶後の超々特作的スケールの雄大さと、ストーリーの深刻さをあらわした……実にソノ何とも彼《かん》とも……。
アハアハアハ。イヤ失敬失敬。わかったわかった……拍手は止してくれ給え。形容詞ばかり並べて済まなかった。どうもアルコールが欠乏して来ると、アタマの反射交感機能が遅鈍になるのでね。チョット失敬してキング・オブ・キングスの喇叭《らっぱ》を吹《ふか》してもらおう。序《ついで》にハバナの方も一つ輪に吹《ふか》して……オットット……これはしたり。吾輩はまだ教壇の前に居るんだっけね。早速スクリーンの中から引退して、代りに今云った怪事件の内容を映写しながら弁士の役を引受ける事にする。そうして諸君の常識を一撃の下にコッパ・ミジンに……。
……ナニ……吾輩がスクリーンの外へ出たって、おんなじ事じゃないかって……?……。ウワア。コイツは又一本参られた。ソウ頭がよくちゃ始末が悪いね。……実はモウ暫くすると今一人、別の吾輩が銀幕の中に現われて、その怪奇を極めた心理遺伝事件の内容を「解放治療」の実験にかけて行く実況を演出する事になるのだ。だからその時にそのモウ一人の吾輩である吾輩は、是非とも映写幕の外に出て、説明役にまわらないとドウモ具合が悪いのだ。未来派の芝居とは違うからね……。
……勿体《もったい》なくもK《ケー》・C《シー》・MASARKEY《マサーキー》会社の超々特作と題しまして『狂人の解放治療』という、勿論、今回が封切の天然色、浮出し、発声映画と御座いまして、出演俳優は皆、関係者本人の実演に係る実物応用ばかり……稀代の美少年と、絶世の美少女を中心として、渦巻き起る不可解に続く不可思議、戦慄に続く驚異の裡《うち》に、二十余名の男女の血と、肉と、霊魂とがいつからともなく、どこからともなく卍巴《まんじともえ》と入り乱れて参りまして、遂にはこの「狂人解放治療場」に於て、悽惨、無残、眼も当られぬ結末を告げるか、告げぬかの際どいクライマックスに到達しようという……よろしく満腔の御期待をもって……【溶暗[#「溶暗」は太字]】……
【字幕[#「字幕」は太字]】 実母と許嫁《いいなずけ》と、二人の婦人を絞殺した怪事件の嫌疑者、呉一郎《くれいちろう》(明治四十年十一月二十日生)大正十五年十月十九日、九州帝国大学、精神病科教室附属、狂人解放治療場に於て撮影――
【説明[#「説明」は太字]】 まず最初に御紹介致しまする、この事件の若い主人公……すなわち最前、小手調としてお眼にかけました十名の狂人の中でも、老人の畠打《はたうち》を見物致しておりました青年の、正面向きの大写しで御座います。字幕にあらわしました通り、名前を呉一郎と申しまして、当年取て二十歳で御座いますが、御覧の通り、男が見ましても吸付いてみたいほどのういうい[#「ういうい」に傍点]しい美少年で御座います。
ところでこの事件の内容に立入りまするに先立って、何故《なにゆえ》に事件の主人公の顔を、斯様《かよう》に大写しにして御覧に入れたかと申しますと、ほかの理由でも御座いませぬ。この少年の骨相が、この事件の根本を支配致しております心理遺伝と、重大な関係を持っているからで御座います。
御承知の通り骨相学と申しますのは、目下のところ、まだ純正な科学とは申しかねるのでありますが、しかし、その中の或る部分部分は、確かに実際と一致することが判明致しておりますので、正木先生はかようにして、新しい精神病患者の顔を見る毎《ごと》に、その骨相を詳細に亘って研究されまして、その血液の中に、如何なる人種の特徴が混入しているかを、怠《おこた》らず調査しておられるので御座います。換言致しますれば、一切の人間の心理遺伝は、その近い先祖たちの各個人個人の特徴をあらわすと同時に、ずっと大昔の野蛮未開時代に、各方面から入れ混《まじ》って来た、各人種の心理的特徴をも、併せて現わしておりますので、一口に日本と申しましても、その骨相と性格の中には、蒙古《もうこ》、印度《インド》、馬来《マレイ》、猶太《ユダヤ》、拉甸《ラテン》、アイヌ、スラブ等の各民族の風采と性格が、切っても切れない因果関係をもって結ばり合つつその人間の特徴を作り出しているので御座います。……すなわち人間の骨相というものは、その先祖代々の血統の縮図……又、或る一人の性格というものは、その人間の先祖代々の精神生活の凝《こ》り固まりとも考えらるべきもので御座いますから、そのような点を考慮致しまして、その人間の表面的の性格は勿論のこと、本人自身にも気付れずにいる、隠れた性格を探し出して、その人間の発狂の状態と照し合せるという事は、研究上、誠に必要な事で御座います。……彼《か》の愛犬家や愛馬家が、市場に並んでいる動物の顔付き、毛並み、骨格なぞを、ただ一眼見廻しただけで、その血統や性質、習慣、又は隠れたる性癖までも、星を指す如く云い当てるのは、この原理を動物に応用したものに過ぎませぬの
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