や、又は壁に関係した言葉が、度々出て参ります。すなわちこの小男の母方の祖父は、黒田藩御用の左官職であった……お笑いになっては困ります。落語では御座いません……でありまして、その祖父の左官職人が、或る時、福岡城の天守|櫓《やぐら》の上で仕事を致しておりますうちに、過って足を辷《すべ》らして墜落惨死を致したので御座いますが、しかも、その祖父というのは元来、何事につけても身の軽いのが自慢だったそうで……天守台の屋根に漆喰《しっくい》のかけ直しをする時なぞは、殿様が遠眼鏡《とおめがね》で、その離れ業《わざ》を御上覧になった位だそうで御座います。そのほか平生の時にも足場を極めて簡略にして仕事をする癖がありましたために、出来上りは早う御座いましたが、何度も足がかりを誤ったり、途中に引っかかったりして生命《いのち》を喪《うしな》いかけましたのを、いつも奇蹟的に助かって来たので御座いました。
然るに、それが幾歳の時で御座いましたか、やはり天守の御屋根の絶頂に登って、殿様の遠眼鏡の中で働らいておりまする中《うち》に、ウッカリ殿様の方へお尻を向けました。すると、それを下から見上げておりました係りの役人が、止せばいいのに大音を揚げまして「心せいや――い。御本丸から御上覧ぞ――う」と余計な注意を致しましたために、思わず固くなったもので御座いましょう。忽《たちま》ち足を踏み辷《すべ》らしまして、数丈の石垣から転がり落ちつつ、粉微塵《こなみじん》となって相果てました。それ以来、その家の左官の職は絶えたので御座いますが、サテその祖父の血が、その娘を通じて、このモーニングの小男に伝わりますと、恐ろしいもので御座います。この男は中学時代までも時々、夜中に寝呆けて跳ね起きまして「助けてくれ」とか何とか云って叫び出す癖がありました。その都度《つど》に家族の者が驚かされて「どうしたのか」と落ち付かせて聞いてみますと「何だか高い屋根か、雲の上みたような処から、真逆様《まっさかさま》に落ちて行くような気がした」と申しましたそうですが……ナント奇妙では御座いませんか。斯様《かよう》に普通人の眼から見れば何でもない、軽い、夢中遊行の発作にまでも、何代か前の先祖が幾度となく「ハッ」とした刹那《せつな》の、徹底した恐怖の記憶が再現しているところなぞは、何という不思議な心理遺伝の実例で御座いましょう。……否、豈《あに》、独《ひと》りこの演説男のみに限らんやであります。一般に吾々が睡眠中に、どこか高い処から落ちたような気がして、ハッと眼を醒ますことがありますのもこの例に照してみますと、格別、不思議では御座いませぬ。吾々の両親でも祖父母でも、誰でも一度や二度は経験しているであろう「シマッタ」とか「俺は死ぬんだッ」とか思う瞬間の、悽愴、悲痛を極めた観念の記憶が、一つの心理遺伝となって、吾々子孫に伝わったものの再現であろう事は、誰しも疑い得なくなるで御座いましょう。
御質問は御座いませんか……。
序《ついで》に今一つ御紹介致しますると、あのボール紙の王冠を頭に戴いて、行きつ戻りつしている年増女で御座います。これはあの衣紋《えもん》のクリコミ加減でもお解りになります通り、或る町家《ちょうか》の娘で、芸妓《げいしゃ》に売られておった者で御座いますが、なかなかの手取りと見えて、間もなく或る若い銀行家に落籍《ひか》される事になりました。ところがその銀行家の両親が昔気質《むかしかたぎ》の頑固者揃いで「身分違い」という理由の下に、彼女を正妻に迎える事を許しませんでしたので、彼女はそればかりを無念がりました結果、或る宴会の席上で、初めてのお客に向って「アンタが何ナ……妾《わたし》に盃《さかずき》指すなんて生意気バイ」と啖呵《たんか》を切りますと、イキナリその盃を相手にタタキ付けて、三味線を踏み折ってしまった……そのまま当病室《こちら》へ連れて来られたという痛快なローマンスの持ち主で御座います。しかし、思案の外《ほか》とは申しながら、昔と違いました新思想の今日で、ことに浮気稼業の身の上で御座いますから、それくらいの事で取り乱すのはチト気が狭過《せます》ぎるように思われるかも知れませぬが、そこが「心理遺伝」の恐ろしいところで、「身分違い」という言葉が、彼女のプライドを傷つける以上に深い打撃を与えたであろう事が、彼女の発病後の態度を御覧になるとわかります。あの通りトテモ見識ばったお上品ずくめで、腰附きから眼づかい、足どりまでも上《うえ》つ方《がた》のお上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《じょうろう》ソックリで御座います。すなわち彼女の家筋が、御維新前までは京都の鍋取公卿《なべとりくげ》……貧乏華族の成り損《そこ》ねであった事を、彼女はその精神異状によって証明致しておりますので、本籍の名前も町人らしくない清河原《きよかわら》という苗字で御座います。つまり彼女は、発病致しませぬ前までは、環境《まわり》の風俗にカブレて町家の娘らしく振舞っていたで御座いましょうが、一旦、精神に異状を呈してしまいますと、最近、一二代の間に出来た町家風《まちやふう》の習性をケロリと忘れて、先祖代々の堂上方の気風を、そのままにあらわしているので御座います。
……ハイ……御質問ですか。サアどうぞ……。
……ナナ……ナル……ナルホド……如何にも御尤《ごもっと》も千万……よくわかりました。つまり「心理遺伝」というものはタッタそれだけのものか……タッタそれんばかりの研究のために、正木博士は生命《いのち》がけの騒ぎをやっているのか……と仰言《おっしゃ》るのですね。
……恐れ入りました。多分その御質問が出る頃と存じましたから、このフィルムの編輯者の方でも気を利かしまして、次には心理遺伝の発見者である当の正木博士を、正面のスクリーンに映写致しますと同時に、只今の御質問について一場の講演をさせる順序に取計《とりはか》らっております。……九大の狂人《きちがい》博士として、アインスタイン、スタインナハ以上に有名な正木博士がスクリーンに現われましたならば、何卒、割《われ》むばかりの拍手を以て、お迎えあらむ事を希望致します。何故かと申しますと当の御本人が非常な拍手好きで、講義中でも学生に拍手させるのを何よりの楽《たのし》みに致しておった位で御座いますから……ナニ……何ですか……スクリーンの中からじゃ、手を叩いても聞えまい……?……。アハハ。これは御尤も千万……ところが聞えるから不思議で御座います。論より証拠……たたいて御覧になればわかる事で……どこに種仕掛《たねしかけ》があるかは、眉に唾《つば》をつけて御覧になれば、すぐに、おわかりになる事と存じますが……エヘンエヘン…………。
……エエ……これが天下に有名な九州帝国大学、医学部、精神病科教授、医学博士、正木|敬之《けいし》氏で御座います。背景は九州帝国大学、精神病科本館、講堂のボールドで、白い診察服を着ておりますのは、平生の講義姿をそのままに画面にあらわしたもので御座います。
お眼止《めどま》りました通り、身長は五尺一寸キッカリしかない、色の浅黒い小男で御座いますが、丸い胡麻塩《ごましお》頭を光る程短かく刈込んだところから、高い鼻の左右にピカピカ光る大きな鼻眼鏡と、その下に深く落凹《おちくぼ》んだ鋭い眼付き、横一文字にピッタリと結んだ大きな口元、又は鼻眼鏡をかけた骸骨ソックリの表情で、テーブルの前に立ちはだかって、諸君を一渡り見まわしてから、総入れ歯をカッと剥《む》き出して笑うところまで、満身これ精力、全身これ胆《たん》、渾身《こんしん》これ智……。
……どうも……そうお笑いになっては困ります。……ナニ。質問……ハイハイ何ですか。ハハア。説明している私と、画面の中の正木博士と同一人か別人か……。
アハハハハハ。これは失敗……早速退散致しまして画面の中の私……否。正木博士に説明させる事に致します。【説明者消失】
【映写幕上の正木博士、身振りに従って発声】
……エヘン……オホン……。
……吾輩は満天下の新人諸君と、この銀幕上に於て相見《あいまみ》ゆる事を生涯の光栄とし、且《かつ》、無上の満足とする者である。
諸君は常識の世界に住んでいながら、非常識の世界に憧憬《あこが》れている人々である。現在、地上の到る処……汽車、汽船の行き尽すきわみ、自動車、飛行機の飛びつくす隈々《くまぐま》に儼然《げんぜん》とコビリ付き、冷え固まっている社交上の因襲、科学に対する迷信、外国の模倣、死んだ道徳観念……なぞいう現代社会の所謂《いわゆる》常識なるものに飽き果《はて》て、変化溌溂、奔放自在なる生命の真実性そのものの表現を渇望する心……すなわち溢るるばかりの好奇心に輝く眼《まなこ》を以て、吾輩の畢生《ひっせい》の研究事業たる「心理遺伝」の実験を見られると、立所《たちどころ》にこれを理解された。一般の精神病者なるものが、如何なる力に支配されて、何事を行っている者であるかという事実を何の苦もなく首肯された。……のみならず諸君の好奇心は、それだけに満足しないで、更に、百尺|竿頭《かんとう》一歩を進めた質問を発せしめた。曰《いわ》く……「心理遺伝はタッタそれだけのものか」……と……。すなわち諸君の頭脳は、吾輩の二十年分の研究と相|伯仲《はくちゅう》する……否……正木キチガイ博士の頭のスピード以上の明快なるスピードを以て……イヤ……有難う。まだ拍手するには早いよ……この点に就て吾輩は特に、満腔の敬意と、感謝とを表明する次第である。
……何を隠そう。吾輩の所謂「極端な心理遺伝」が、ただ、そんな風にして精神病者にだけ現われるものならば、大して驚く事も、心配する事もないのだ。尤も今まで説明して来た程度の研究でも、そこいらにウジャウジャしているオタマジャクシ学者なんかにとっては眼の玉がデングリ返る程の大発見かも知れないが、しかし、斯《か》く申す吾輩、キチガイ博士にとっては、躄《いざり》の乞食が駈け出した位にしか感じない程度の新発見に過ぎないのだ。
吾輩が「心理遺伝」の恐しい事を、大声疾呼《たいせいしっこ》して主唱する所以《ゆえん》の第一は、それが斯様《かよう》にして精神病者に現われるばかりでない。普通人……すなわち諸君や吾輩にも精神病者と同様に、フンダンに現われている事が、明かに証明出来るからなのだ。
……ナニ。質問……イヤ。ちょっと待ってくれ給え。質問の意味はアラカタ解っている……それでは精神病者と、普通人との区別が、わからなくなるではないか。そんな篦棒《べらぼう》な話があるものか……と云うんだろう。
……ところが純正な科学者の立場からいうと、そんなベラボーな話が「ある」という以外に返事の仕様がないから困るのだ。しかも精神病者とおんなし程度どころの騒ぎではない。吾々……むろん諸君も含んでいるんだよ……の精神生活の中には、精神病者と寸分違わない……もしくはソレ以上のモノスゴイ「心理遺伝」が、朝から晩まで、一分、一秒の隙間《すきま》もなく活躍している……眠っている間も夢となって立現《たちあら》われて、執念深く吾々の心理を支配しているから困るのだ。そのために自分の心が、自分で自由にならない場合が非常に多いから困るのだ。おかげで新聞、雑誌の社会記事が、無限に提供されて行く事になるのだから、問題にしない訳に行かなくなって来るのだ。
……これはズット以前、新聞記者にチョット話した事がある、心理遺伝の中でも極く極く手軽い実例ではあるが、無くて七癖、あって四十八癖という奴は、精神病者と同様に、自分の気持が、自分で自由にならない好適例である。しかも、それを他人からドンナに笑われても、又は自分自身で是非とも改めなければならぬ必要を感じていても、どうしても止める事が出来ないのは、ソレが今いう心理遺伝のあらわれだからである。……泣くまいと思ってもツイ涙が出る。憤《おこ》る場合でないと思っても、思わずムラムラッと来て、前後を忘却してしまうのも、やはり一時的の精神の偏《かたよ》りを、自分で持ち直
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