ようかと思う。誰も居なければ盗んでやろうか。他《ひと》の小便を嗅《かい》でおこうか。自分の遺物は埋めておこうか……なぞいった畜生のままの心理の表現を、吾人は日常生活の到る処に発揮しているので、誰でも口にする「コン畜生」とか「この獣《けだもの》め」とかいう罵倒詞に当て嵌《はま》る心理のあらわれは皆、これに他ならぬのである。
 次に、この禽獣性の下に在る隔膜《かくまく》を、今一つ切開くと今度は、その下から虫の心理がウジャウジャと現われて来る。
 たとえば、仲間を押し落しても高い処へ匐《は》い上ろうとする。誰にも見えない処を這い廻って美味《うま》い事をしようとする。うまい事をすると、すぐに安全第一の穴へ潜り込もうとする。栄養のいい奴を見付けるとコッソリ近付いて寄生しようと試みる。あたり構わぬ不愉快な姿や動作をして一身を保護しようとする。固い殻に隠れて寄せ付けまいとする。敵と見ると、ほかの者を犠牲にしても自分だけ助かろうとする。いよいよとなると毒針を振廻す。墨汁《すみ》を吹く。小便を放射し、悪臭を放散する。又はそこいらの地物《じぶつ》や、自分より強い者の姿に化ける……なぞ、低級、卑怯な人間のする事は皆、かような虫の本能の丸出しで、俗諺《ぞくげん》にいう弱虫、蛆虫《うじむし》、米喰《こめくい》虫、泣虫、血吸《ちすい》虫、雪隠《せっちん》虫、屁放《へっぴり》虫、ゲジゲジ野郎、ボーフラ野郎なぞいう言葉は、こうした虫ケラ時代の心理の遺伝したもののあらわれ[#「あらわれ」に傍点]を指した軽蔑詞に外ならない。
 次に……最後に、この虫の心理の核心……すなわち人間の本能の最も奥深いところに在る、一切の動物心理の核心を切開いてみると、黴菌《ばいきん》、その他の微生物と共通した原生動物の心理があらわれて来る。それは無意味に生きて、無意味に動きまわっているとしか思えない動き方で、所謂群集心理、流行心理もしくは、弥次馬心理というものによって、あらわされている場合が多い。その動きまわっている行動の一つ一つを引離してみると、全然無意味なもののように見えるが、それが多数に集まると、色々な黴菌と同様の恐るべき作用を起す事になる。すなわち光るもの、立派なもの、声の高いもの、理屈の簡単なもの、刺戟のハッキリしているもの、なぞいう新しい、わかり易いものの方へ方へと群がり寄って行くのであるが、無論判断力もなければ、理解力もない。顕微鏡下に置かれた微生物と同様の無自覚、無定見のまま恍惚として、大勢に引かれながら大勢が行く。そこに無意味な感激があり、誇りと安心があるのであるが、しまいには何という事なしに感激のあまり夢中になって、惜し気もなく生命《いのち》を捨てて行く……暴動……革命等に陥って行く有様は、さながらに林檎酸《りんごさん》の一滴に集中する精虫の観がある。
 人間の心理はここに到って初めて物理や、化学式の運動変化の法則に近づいて来る。すなわち無生物と皮一重のところまで来るので、政治家、その他の人気取りを職業とするものが利用するのは、かような人間性の中心となっている黴菌性の流露に外ならないのである。
 斯様《かよう》な心理の中で、最単純、低級なものを中心にして、外へ外へと高級、複雑な動物心理で包み上げて、その上を所謂、人間の皮なるもので包装して、社交、体裁、身分家柄、面目人格なぞいうリボンやレッテルを以て飾り立て、お化粧を塗って、香水を振かけて大道を闊歩して行くのが、吾々人類の精神生活であるが、その内容を解剖してみると大部分は右の通りに、人体細胞の中に潜在している祖先代々の動物心理の記憶が、再現したものに他ならない事が発見されるのである。しかしこれとても前に述べた肉体の解剖的観察と同様、胎児が如何にしてそんな千万無量の複雑多様の心理の記憶を、その細胞の潜在意識、もしくは本能の中に包み込んで来ているのか、
「何が胎児をそうさせたか」
 というような事柄は全く説明されていない。否、一個の人間の精神の内容が、そんなような過去数億年間に於ける、万有進化の遺跡そのものであるという事実すらも「人間は万物の霊長」とか「俺は人間様だぞ」とかいう浅薄《あさはか》な自惚《うぬぼ》れに蔽《おお》い隠されて、全然、注意されていない状態である。

 以上は胎児の胎生と、その胎生によって完成された成人の肉体と、精神上に現われている、万有進化の遺跡に関する不可思議現象を列挙したものであるが、次にはその人間が見る「夢」の不可思議現象に就いて観察する。

 夢というものは昔から不思議の代表と認められているので、少しでも意外な事に出会うと、直ぐに「これは夢ではないか」と考えられる位である。実物とすこしも違わぬ森羅万象《しんらばんしょう》が見えるかと思うと、想像も及ばぬ奇抜、不自然な風景や、品物がゴチャゴチャと現われたり、その現われた風物に、現実世界に於ける心理や、物理の法則が、その通りに行われて行くかと思うと、神話、伝説にもないような突飛《とっぴ》な法則によって、その風物が行きなり放題に千変万化したりするので、その夢の正体と、そうした夢の中の心理、景象の変化の法則については古来、幾多の学者が、頭を悩まして来たものであるが、ここにはそのような夢の特徴の中でも、夢の本質、正体を明らかにする手がかりとして最も重要な、左の三項を挙げる。
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 (一[#「一」は太字])夢の中の出来事は、その進行して行く移り変りの間に非常に突飛な、辻褄《つじつま》の合ないところが屡々《しばしば》出て来る。否。そのような場合の方がズッと多いので、そんな超自然な景象、物体の不合理極まる活躍、転変が、すなわち夢であると考えた方が早い。にも拘わらず、その夢を見ているうちには、そうした超自然、不合理を怪しむ気が殆ど起らないばかりでなく、その出来事から受ける感じがいつでも真剣、真面目《しんめんもく》で、現実もしくは現実以上に深刻痛切なものがあること。
 (二[#「二」は太字])未だ曾て、見た事も聞いた事もない風景や、ステキもない天変地妖が、実際と同様の感じをもって現われて来ること。
 (三[#「三」は太字])夢の中に現われて来る出来事は、それが何年、何十年の長い間に感じられる連続的な事件であっても、それを見ている時間は僅に分、もしくは秒を以て数え得る程に短かいものである事が近代の科学によって証明されていること。
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 以上列挙して来たところの「胎児」と「夢」とに関する各種の不可思議現象は、何人《なんぴと》も否定し得ない科学界の大疑問となっているのであるが、しかも、そうした不可思議現象が、何故《なにゆえ》に今日まで解決されていないか。これらの不思議を解決する鍵が、どうして今日まで、誰にも見当らなかったかという疑問について考えてみると、これには二つの原因がある。
 その一つは人間を胎生させ、且《か》つ、その胎生によって完成した成人に夢を見せるところの人体細胞に関する従来の学者の考え方が、全然間違っていること、それから今一つは、この宇宙を流れている「時間」というものに対する人類一般の観念が、根本的に間違っていること……とこの二つである。
 言葉を換えて云えば、人体を組織している細胞の一粒一粒の内容は、その主人公である一個の人間の内容よりも偉大なものである。否。全宇宙と比較されるほどのスバラシク偉大複雑な内容、性能を持っているものである。だからその細胞の一粒の内容を外観から顕微鏡で覗き、その成分を化学的に分析し、その分裂、繁殖の状況をその形態や、色彩の変化によって研究する従来の唯物科学式の行き方では到底、細胞の内容、性能の偉大さは解るものでない。それは英雄、偉人の生前の業績を無視して、単にその屍体の外貌を観察し、内部を解剖する事のみによって、その偉大な性格や、性能を確かめようとするのと同様の無理な註文である。……又、時間というものに就ても同様の事がいえる。……中央気象台や、吾々の持っている時計の針や、地球、太陽の自転、公転なぞによって示されて行く時間というものは真実の時間ではない。唯物科学が勝手に製作し出した人工の時間である。錯覚の時間、インチキの時間である。……真実の時間というものは、そんな窮屈な、寸法で計られるような固苦しいものではない。モットモット変通自在な、玄怪不可思議なものである……という事実が実際に首肯出来れば、同時に「胎児の夢」の実在が、首肯出来る筈である。生命の神秘、宇宙の謎を解く鍵を握ったも同然である。

 元来細胞なるものは、人間の身体の何十兆分の一という小さい粒々《つぶつぶ》で、度の弱い顕微鏡にはかからない位の微粒子である。だからその内容の複雑さや、そのあらわし得る能力の程度なぞも、やはり人間全体の能力の何十兆分の一ぐらいのものであろう……いずれにしても極度に単純な、無力なものであろう……というのが今日までの科学者の頭の大部分を支配して来た考えであった。だからその後その細胞の不可思議な生活、繁殖、遺伝等の能力が、次から次に発見されて科学者を驚異させて来たけれども、その研究は依然として顕微鏡で覗かれ、化学で分析され得る範囲……すなわち唯物科学で説明され得る範囲の研究に限られて来たもので、大体の考え方は、やはり人体の何十兆分の一という程度の単純な、無力なもの……という概念を一歩も踏出していない。そうしてソレ以上の研究をするのは唯物科学を冒涜するものである。学者として一つの罪悪を犯すものであるとさえ考えられて来た。
 しかしこれは現代の所謂《いわゆる》、唯物科学的な論法に囚《とら》われて来た学者連中が、細胞の内容や能力を、その形や大きさから考えて「多分これ位のものだろう」という風に見当をつけた、極めて不合理な一つの当て推量が、先入主となったところから起った量見違いである。生命の神秘、夢の不可思議なぞいう科学界の大きな謎が、いつまで経っても不可解のままに取残されているのは、そうした「葭《よし》の髄から天井覗く」式の囚われた、唯物論的に不自由、不合理な……モウ一つ換言すれば科学に囚われ過ぎた非科学的な研究方法によって、広大無辺な生命の主体である細胞を研究するからである事が、ここに於て首肯されなければならぬ。そんな旧式の学問常識や、囚われたコジツケ論に対する従来の迷信を一掃して、もっと自由な、囚われない態度で、宇宙万有を観察すると同時に、この問題を、もっと適切明瞭な、実際的な現象に照し合せて考えてみると、その一粒の細胞の内容には、顕微鏡や、化学実験室で観測、計量し得るよりも遥かに偉大、深刻な、実に宇宙全体と比較しても等差を認められない程の内容が含まれている事実が、現代を超越した真実の科学知識によって気付かれなければならぬ。所謂、唯物科学的な研究、考察方法を、生命《いのち》の綱と迷信している人々が、如何に否定しようとしても否定出来ない事実に直面しなければならぬ。
 その第一に挙げなければならぬのは細胞が、人間を造り上げる能力である。すなわち生命《いのち》の種子《たね》として母胎に宿った唯一粒の細胞は、前に述べた通りの順序で、分裂して生長しながら、先祖代々の進化の跡を次から次へと逐《お》うて成長して来る。あそこはああであった。ここはこうであったと思い出し思い出し、魚、蜥蜴《とかげ》、猿、人間という順序に寸分間違いなく自分自身を造り上げて来る。しかも一概には云えないが、なるべく両親の美点や長所を綜合して、すこしでも進歩したものにしようとするので、耳、目、鼻、口の位置は万人が万人同様でありながら……これは妾《あたし》の児《こ》だ。誰にも似ている。彼にも肖《に》ている。癇癪《かんしゃく》の起し具合はお父さんに生き写しだ。物覚えのいいところは妾にソックリだ……なぞと極めて細かいところまで微妙に取合せて行く。その細胞一粒一粒の記憶力の凄まじさ。相互間の共鳴力、判断力、推理力、向上心、良心、もしくは霊的芸術の批判力等の深刻さはどうであろう。更にその細胞の大集団である人間が、宇宙間の森羅万象に接して
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