類文化の死命を掌握する大怪魔『脳髄』の正体をここまで、的確に探偵し、曝露して来た吾輩……かくいうアンポンタン・ポカンの名脳髄振りに、今一度シャッポを脱がずにはいられなくなるであろう……と……。
しかしながら諸君の中には、まだシャッポを脱がない人が居るかも知れない。
これだけではまだ十分な説明が出来ないであろうところの精神病関係、もしくは心霊に関する各種の怪奇、不可思議現象に就《つい》て、首をひねっている篤学の士が居るかも知れない。
……宜《よろ》しい……大いによろしい。
そういう人々こそ共に怪奇を語るに足る人々である。この地上、最大の怪奇的神秘の正体……一切のエロ、グロ、ノンセンスの主人公たる脳髄を、徹底的にアンポンタン・ポカン化しなければ止まない最新、最鋭、最高級の尖端人種でなければならぬ。
……宜しい……大いに宜しい。
そのような人々は済ないがモウ一度シャッポを冠《かむ》り直して、脳髄局の大玄関に引返してくれ給え。そうしてここだここだ……ここに掲示してある『脳髄局、ポカン式反射交感事務、加入規約』なるものを読んでみたまえ。
ドウダイ諸君……この規約箇条はこの通り僅かに三箇条しかない。普通の電話交換局加入規約の何十分の一にも足りない。頗《すこぶ》るアッサリしたものである。しかもこの三箇条の加入規約は、人間の全身三十兆の細胞が、祖先伝来の不文律として、非常識なほど極端に遵奉しているものであるが、しかもこの簡単な三箇条が呑み込めさえすれば、諸君はモウ立派な一人前の、押しも押されもせぬ脳髄学大博士になれるのだ。現在、地球の全表面に亘って演出されつつある脳髄関係のあらゆる不可解劇、皮肉劇、侮辱虐待劇、ノンセンス劇、恐怖劇、等々々の楽屋裏が、如何にタワイもないものであるかを何のタワイもなく看破する事が出来るのだ。
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◇第一条[#「◇第一条」は太字] 脳髄局ヨリ反射交感シ来《きた》ル諸般ノ報道ハ、仮令《たとい》、事実ニ非《あら》ズトモ、事実ト信ジテ記憶スベシ。
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……泥棒が這入った夢を見て、大声を揚げて家《うち》中を呼び起す連中は、この第一箇条に支配されている連中に外《ほか》ならないのだ。
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◇第二条[#「◇第二条」は太字] 脳髄局ヨリ反射交感シ来ラザル事ハ、仮令自身ニ行イタル事ト雖《いえど》モ、事実ト認ムベカラズ。記憶ニモ止《とど》ムベカラズ。
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……『昨夜《ゆうべ》、君の蒲団《ふとん》を引ったくった覚えはない』なぞと頑張る連中は、この第二箇条を厳守している正直者に相違ない。
ところで右の二箇条は、現在の精神病学界で二重圏点付きの重大疑問となっている『ねぼけ[#「ねぼけ」に傍点]状態』を引き起す規約である。むろん普通のアタマの人間にも、よくある事だし、文句も簡潔だから記憶し易いが、第三条となると御覧の通り、文句が少々ヤヤコシイようである。しかし意味は前の二箇条と同様すこぶる簡明である。すなわち……
『脳髄の反射交感機能に異状が起った場合には、脳髄の無い下等動物と同様に、脳髄以外の全身の細胞の反射交感作用を脳髄の代りに活躍させよ』
という意味の規約で、いわば脳髄の非常時に対する応急手段とでもいおうか。……しかも彼《か》の『物を考える脳髄』が今日まで、幽霊、妖怪、幻覚錯覚、精神異状、泣き中気《ちゅうき》、笑い中気、夢中遊行、朦朧《もうろう》状態なぞいうあらゆる超科学的、もしくは超説明的な怪現象を演出して、全世界の科学者の脳髄をドン底まで飜弄して来たモノスゴイ手品の種シカケは、実にこの簡単明瞭な第三条の規約の逆用そのものに外ならなかったのである。曰《いわ》く、
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◇第三条[#「◇第三条」は太字] 脳髄局ノ反射交感機能ニ故障ヲ生ジタル場合、ソノ故障ヲ生ジタル一個所ニ於テ反射交感サレツツアリシ或ル意識ハ、他ノ意識トノ連絡ヲ絶チ、全身ノ細胞各個ガ元始以来保有セル反射交感作用ヲ直接ニ元始下等動物ト同様ノ状態ニ於テ(脳髄ノ反射交感作用ト無関係ニ)使用シ、他ノ意識ニ先ンジテ感覚シ、判断シ、考慮シ、又ハ全身ヲ支配シテ運動活躍セシムルヲ得ベシ。
【附則】[#「【附則】」は太字] (イ)脳髄局ガ反射交感スル暇《いとま》ナキ急迫ノ場合……例エバ無意識ニ眼ヲ閉ジ又ハ飛ビ退《の》ク場合等。(ロ)麻酔セル場合……例エバ麻酔剤ニテ脳髄ノ全体ガ反射交感機能ヲ停止シイル場合ニ、全身ノ細胞ノ感覚、意識記憶等ニヨリテ行ウ無意識ノ挙動言語等。(ハ)脳髄ガ異状ノ深度ニ熟睡セル場合……例エバ夢中遊行、寝言、歯ギシリ等。以上ノ三種類ノ場合モコレニ準ズ。
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忘れないうちにノートか何かに書き止めておき給え。学生諸君には特におすすめする。この第三条が脳髄衛生学の初め終りで、諸君の持病といってもいい神経衰弱は、要するにこの規約から生まれた病気に外ならない……否……人類の中でも文化民族と自称する者の大部分は現在、この第三条の規約に引っかかって、精神的の破産、滅亡状態に陥りつつあるのだから……。
と……いうのは他の理由でもない。今まで説明して来たところでもアラカタ想像が付くであろう通りに脳髄局のポカン式反射交感機は、構造が非常にデリケートに出来ているのだから色んな故障を起し易いばかりでなく、その故障箇所の取換えが、なかなか急に行かない。だから止むを得ずコンナ応急手段的な規約が設けられているのだ。
しかも、こうした脳髄局に於ける反射交感の応急規約、第三条の存在を最も有力に、簡単明瞭に証拠立てて、脳髄が作り出した地上一切の怪奇現象のカラクリの種明しをするのに持って来いの第一例というのが、ツイ今しがた引合いに出した『泣き中気』『笑い中気』だから愉快ではないか。
すなわち脳髄の中の或る一個所……たとえば『笑い係り』の交感台が、脳出血のために麻痺して、反射交感が不能になると、そこで反射交感されていた『笑いの電流』だけが第三条の規約通り、ほかの意識との連絡を失って遊離してしまう。そうして脳髄以外の全身の細胞が元始以来遺伝して来ている反射交感の機能を先廻りに使用しながら、何でもカンでも無暗矢鱈《むやみやたら》に笑わせるのだ。ほかの『怒り』や『悲しみ』の電流が動きかけても、その電流が中央の反射交感台を遠まわりして来るうちに、遊離している『笑いの電流』の方が、直接に全身の細胞を馳けまわって、先へ先へと笑い散らかして行くのでほかの感情が外へあらわれる隙《すき》が無いのだ。これが俗に『笑い中気』という奴で『怒り中気』でも『泣き中気』でも、みんな、おなじ理屈で起るのだ。
いうまでもなく、これは脳出血から来た故障だから、病理解剖をして頭の蓋《ふた》を取ってみればすぐにわかる。……『ハハア。ここが笑いの電流を交感する処だな』……という事実が一目瞭然する訳であるが、しかし、実をいうとコンナ風に、肉眼で見える脳髄の故障というものはドチラかといえば例外に近い方で、まだこのほかに眼に見えない脳髄の故障が演出する怪奇現象の種類がドレ位あるか、わからない。所謂《いわゆる》エロ、グロ、ノンセンスのモノスゴイところを取交《とりま》ぜて科学文明の屋根裏から地下室……アタマ文化の電車通りから横路地に到るまで、昼夜不断にウヨウヨヒョロヒョロと、さまよい廻っているのだ。……のみならず、その怪奇現象ソレ自身の一つ一つが又、ソックリそのままに、聴診器にも這入《はい》らず、レントゲンにも感じないデリケートな脳髄の故障を、一つ一つにハッキリと証拠立てているから面白いではないか。
まず第一に、何よりも憤懣に堪えないのは、現代の所謂『物を考える脳髄』諸君が、その脳髄ソレ自身と全身の細胞との間に、こうした第三条の応急規約が存在している事実を、夢にも気付かないでいることだ。……だから『脳髄なんかイクラ使ったって減るもんじゃない』とか何とか云って、ヤタラに頭を抱えたり、首をひねったりして、無理にも脳髄に物を考えさせようとする習慣を一人残らず持っていることだ。……脳髄が物を考える処でない……単純な反射交感専門のアンポンタン・ポカン局……という事実にミジンも気付かないで、物を考える専門のお役所みたいに心得て何でもカンでも脳髄に考えさせようと努力している事だ。……電話交換局に市役所の仕事を押し付けて平気でいることだ。
そのために脳髄局の交換手たちがドレ位、事務の過重負担に悩まされているか……そのためにドレくらい思い切った反射交感事務の間違い……幻覚、錯覚、倒錯観念の渦巻きを渦巻かせているか、殆ど想像も及ばないであろう。
論より証拠……事実は眼の前だ。
アンマリ脳髄で物を考え過ぎると、電流を通じ過ぎたコイルと同様に、脳髄の組織の全体が熱を持って来て、その反射交感の機能が弱り初める。そうすると全身の細胞に含まれている色んな意識が、お互い同志に連絡を喪《うしな》って、めいめい勝手な自由行動を執《と》りはじめる事になる。ソイツが軽い、半自覚的な、意識の夢中遊行となって、全身の細胞が作り出している意識の空間を無辺際に馳けまわるのだ。……諸君が何か知ら考え詰めてアタマの疲れた時分にウットリと凝視している、アノ取止めのない空想とか、妄想とかいうものがソレで、そのうちに脳髄がイヨイヨ疲れて眠り込んで来ると、そんな意識同志の連絡もイヨイヨ絶え絶えになって来る。そうして次第次第に辻褄の合わない夢になって行く状態は、諸君が小説を読みさして眠りかける時だの、教室や電車の中で舟を漕《こ》いだりする際にマザマザと体験しているところであろう。
昔の人は迷信が深かったから、暗闇の中なぞを行く時には、恐怖のために脳髄を疲らして色々な幻覚や倒錯観念に陥ったものだ。そんな幻視や幻感が、幽霊になったり、妖怪|変化《へんげ》になったりして、物の話に伝わり残っているのであるが、しかも、そんな事実を笑う連中はお気の毒ながら現代式のハイカラな神経の持主とはいえないのだ。神経衰弱とヒステリーと、制限剤と睡眠薬を持ちまわる紳士淑女の仲間に這入れないのだ。
諸君みたような近代人の中《うち》でも、特に目まぐるしい都会生活をやっている人間たちは、真昼さ中でも脳髄の機能を疲らしているから、色んな意識作用や、判断感覚なぞいうものが遊離して、全身の神経末梢……細胞相互間の反射交感機能を這いまわりつつ、フラフラチラチラとした夢中遊行状態になりかけているのだ。……だから、大きな煙突の傍を通ると、今にも頭の上に倒れかかって来るような気がして、思わず急ぎ足になるのだ。……眠っている枕元に、往来の電車の音が走りかかって来るような気がして、ツイ電燈を灯《つ》けてみたくなるのだ。そのほか、ストーブが欠伸《あくび》をしたの、卵の黄味が皿の中から白眼《にら》んだの、昨夜帰りがけに、向うの辻の赤いポストの位置が違っていたの、パン焼竈《やきがま》が深夜に溜息をしたの、画像が汗を流したの、机の抽出《ひきだ》しから白い手があらわれてオイデオイデをしたの、ピストルが自分の方を向いてズドンといったの……というような奇怪現象が、科学文化のマン中に引っ切りなしに起って来るのは、みんな脳髄の疲労から起る、反射交感事務の間違い……すなわち意識の夢中遊行に外ならないのだ。
ところで前にも断った通り、この程度の精神異常だったら諸君の中にもザラに在るのだ。しかもこの程度の連中は、自分でもウスウス自分の精神異常を自覚しているので、ウッカリ気違い扱いにすると、益々病状を昂進させる虞《おそ》れがあるから、わざと精神病者の数に入れてないのであるが、コイツが今一歩進んで来るとトテも放ったらかしておけなくなる。金箔《きんぱく》付の発狂となって、赤煉瓦のアパート生活に、護衛付の資格が出来て来るのだ。
吾輩……アンポンタン・ポカンが今日まで御厄介になっている九州帝国大学の精神病科教室には、ソンナ連中がウジャウジャ居たもんだ。しかも、
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