はどこに在る』……『吾々はドウして生きている』というのか……。
……ナアンダ……。
チットモ可笑しい問題ではないではないか。不思議でもなければ奇抜でもない。極めて平々凡々の問題ではないか。
……パンツの泥を払え。
……シャッポを冠り直せ。
……クラバアツを正して聞け……。
吾々の精神……もしくは生命意識はドコにも無い。吾々の全身の到る処に満ち満ちているのだ。脳髄を持たない下等動物とオンナジ事なんだ。
お尻を抓《つ》ねればお尻が痛いのだ。お腹が空《す》くとお腹が空くのだ。
頗《すこぶ》る簡単明瞭なんだ。
しかしこれだけでは、あんまり簡単明瞭過ぎて、わかり難《にく》いかも知れないから、今すこし砕いて説明すると、吾々が常住不断に意識しているところのアラユル慾望、感情、意志、記憶、判断、信念なぞいうものの一切合財は、吾々の全身三十兆の細胞の一粒一粒|毎《ごと》に、絶対の平等さで、おんなじように籠《こ》もっているのだ。そうして脳髄は、その全身の細胞の一粒一粒の意識の内容を、全身の細胞の一粒一粒|毎《ごと》に洩れなく反射交感する仲介の機能だけを受持っている細胞の一団に過ぎないのだ。
赤い主義者は、その党員の一人一人を細胞と呼んでいる。それと同様に細胞の一粒一粒を人間の一人一人と見て、人間の全身を一つの大都会になぞらえると、脳髄はその中心に在る電話交換局に相当する事になる。そうしてソレ以外の何物でもあり得ない事がわかるのだ。
……それでもまだ合点《がてん》が行かなければ吾輩、ポカンと一緒にこっちへ来るがいい。時間と空間のあらん限りを馳けめぐって、脳髄の正体を突止めて行ったポカンの苦心惨憺の蹤跡《あと》をモウ一度くり返して辿《たど》ってみるがいい。
まず第一に脳髄が如何なる処から、如何なる理由の下に、如何にして生まれて来たかを探るべく、アタマ航空会社専用の超スピード機『推理号』の銀翼の間に、吾輩アンポンタン・ポカンと相並んで同乗するのだ。そうして爆音勇ましくアタマ飛行場を離陸すると、無限の時空を一気に翔破《しょうは》しつつ、諸君の眼下に横たわる雄大、荘厳を極めた万有進化の大長流を六億年ほど逆航するのだ。
見たまえ。……現在の人類全盛の世界は一瞬間に未来の夢となって、マンモス、エレファス、ステゴドンなぞいう巨獣が、時《とき》を得顔《えがお》にノサバリ廻っている百万年前の象の世界が、脚下に展開して来るであろう。
それから更に、その百万年前の竜の世界、その又以前の鳥の世界、その又ズット以前の魚の世界、貝類の世界、スポンジの世界と、次第に進化の度の低い、小さな生物ばかりの世界へ超スピードで引返して、遂に六億万年前の古世代までやって来ると……ドウダ……天地を覆《くつがえ》す大噴火、大雷雨、大海嘯《おおつなみ》、大地震の火煙《ひけむり》、水けむり、土煙《つちけむり》が、あとからあとから日月を蔽《おお》いながら渦巻きのぼっているこの世界の若々しさはドウダ。地球の元気さはドウダ。
そこでこの地表に泡立ち漂っている塩分の薄い、摂氏四十度内外の温度を保っている海水の一滴を採取して、顕微鏡にかけて覗いてみたまえ。諸君は眼の前に、無量無数に浮游している単細胞生物の拡大像を発見するであろう。将来一切の生命の共同の祖先となるべき元始細胞の大群集を、さながらに見渡し得るであろう。……しかもこの元始細胞こそは地球の表面が、御覧の通りの天変地妖を起しながら、少し宛《ずつ》少し宛冷却して来るうちに、あとからあとから作り出して来た色々な化合物の中でも、一番最後に出来た最高等複雑なものであった。諸原素の活力を最も円満、敏活に発揮し得るように化合させた微妙精英の有機体……あめ[#「あめ」に傍点]、の[#「の」に傍点]、みなかぬし[#「みなかぬし」に傍点]の正統、エホバの愛《いと》し児《ご》、日の神の王子ホルスとも称《たた》うべき、地上最初の生命の群れに外ならなかったのだ。
だからこの元始細胞の一粒一粒は、その環境の変化に応じてアラユル意識だの、感情だの、判断力だのを現わし得る、無限の霊能を持っていたものである。自分以外の無機物、有機物を同化して、自己を増大し分裂すると同時に、その分裂した近所合壁《きんじょがっぺき》の細胞同志に、お互いの感覚や意識を反射交感させ合う霊能までも一緒に持っていたのだ。
その証拠に見たまえ……諸君の眼の前で、今の元始細胞が盛んに自己を分裂増大して、その形態と能力をグングン進化させ初めたではないか。その霊能でもって見る見るうちに成長し、分裂し、結合し、反射交感して、一心同体となって共鳴、活躍しつつ、自分達の共産的霊能を飽くまでも地上に発揮すべく、次第に高等複雑な姿に進化し初めたではないか。そうして……
「最早《もう》、ここまで進化したら天下無敵だろう。オレサマ以上に進化した奴は他にいないであろう」
と安心して、自惚《うぬぼ》れ切った奴が、そうした得意時代の姿をソックリそのまま、スポンジ、貝類、魚、鳥、獣《けもの》という風に、それぞれの子孫に伝えて来るうちに……ドウダ……いつの間にか今日の通りの複雑多様、千変万化のありとあらゆる生物界を、諸君の眼の前に展開させて来たではないか。
……ところで見たまえ。
コンナに色々と千差万別している動物たちの中でも、進化の度合いの極めて低い、海月《くらげ》以下の動物連中は、御覧の通り脳髄とか、神経|粒《りゅう》とかいうハイカラなものを持っていないだろう。大昔の通りに全身の細胞同志の反射交感作用でもって、あらゆる感覚を全身同時に意識し合いつつ、考えて、動いて、喰って、寝て、生きているだろう。
ところが吾々みたように高等複雑な進化を遂げた動物になって来ると、御承知の通り、意識の内容が非常に立て込んで来る。細胞同志の距離間隔《へだたり》もだんだんと遠くなって『あんな処まで俺の身体《からだ》かしら』なぞと、湯槽《ゆぶね》の中で趾《あしゆび》を動かしてみる位にまで長大な姿になっている。だから、手足や、眼鼻が専門専門で分業になっているように、意識の方でも『脳髄』と名付くる自動式、複式、反射交感局を作って、全身三十兆の細胞同志の感覚や、意識を縦横ムジンに反射交感させつつ、全身一斉に……俺は俺だぞ……俺はこうして生きているんだぞ……という気持になっているのだ。
吾々の全身三十兆の細胞は、かようにして、流れまわっている赤血球、白血球から、固い骨や、毛髪の尖端に到るまでも、吾々が感じている意識の内容をソックリそのままの意識内容を、その一粒一粒|毎《ごと》に、同時に感じ合って、意識し合っているのだ。
眼の球《たま》ばかりで物を見る事は出来ない。耳ばかりで音は聞えない。その背後《うしろ》には必ずや、全身の細胞の判断感覚がなければならぬ。
同様に脳髄が、脳髄ばかりで物を考えたり、感じたりする事は不可能である。その背後《うしろ》には必ずや全身の細胞相互の主観、客観がなければならぬ。さもなければ人間の脳髄は、銀幕と観衆を喪失《なく》した活動写真機と同様の無意義なものになってしまうのだ。
しかも、その脳髄によって仲介された全身の意識の、反射交感作用の敏活な事というものは、真に驚くばかりである。トテモ電信電話、ラジオぐらいで繋がり合っている人間の社会組織なぞの追付くところでない。……背筋がヒヤリとすると同時に全身がゾ――ッと粟立《あわだ》つ……お尻がチクリとするかしないかに『アッ』と飛び上る……という、それ程左様に迅速敏活を極めているのだ。
吾々の全身の各器官を形成する三十兆の細胞の一団は、こうしてメイメイに各自専門の仕事を分担しつつ、脳髄の反射交感機能を使って、一斉に、直接に物を見て、聞いて、嗅《か》いで、味わっているのだ。脳髄を中心として一斉に意識し、感激し、闘い、歌い、舞い、喚《わ》めき、叫んでいるのだ。
……嬉しいと食慾が進む。胃袋も一緒にハシャイでいるからだ。
……飯を喰うと、まだ消化もしないうちに元気が付く。全身の細胞が同時に満腹するからだ。
だから吾々が自分の生命、もしくは精神として意識しているものの正体は、全身無数の細胞の一粒一粒が描きあらわすところの主観客観が、脳髄の反射交感作用仲介で、タッタ一つにマン丸く重なり合ったのを、透かして覗いているだけのものだ……という事が、もはや文句なしにわかるだろう。同時に吾々が今日まで迷信させられて来た脳髄の偉大な内容は、実は全身の細胞の一粒一粒に含まれている無限の霊知霊能が、そこで反射交感されているのを錯覚していたものだ……ちょうど電話交換局が、都会を支配していると考えるように……という事実が、何のタワイもなく点頭《うなず》かれるだろう。
……ナント諸君……簡単明瞭ではないか。
……開《あ》いた口が閉《ふさ》がらぬではないか。
……現代の科学者たちが、最大、最高級の不可思議とし、驚異としている生命意識の根本問題は、こうして『脳髄が物を考える』という考えを引っくり返して考えると同時に、何の苦もなく氷解して終《しま》うではないか。脳髄の受持っている役割が、手足のソレと同様にハッキリして来るではないか。
……それでも、まだわからなければモウ一度、こちらへ来てみたまえ。ポカンの足の下に横たわっているこの脳髄と名づくるアンポンタン・ポカン式、自動式、反射交換局の内部を覗いてみたまえ。この交換局の中に詰めかけている親切明敏を極めた交換嬢……神経細胞たちの仕事振りを参観して見給え……。
彼女たち……神経細胞の大集団は、御覧の通り自分自身に電線となり、スイッチとなり、コードとなり、交換台、中継台となり、又はアンテナ、真空管、ダイヤル、コイル等に変形すると同時に、全身の細胞各個に含まれている意識感覚の各種類にそれぞれ相当する、泣き係り、笑い係り、見係り、聞係り、記憶係り、惚れ係りなぞいう、あらん限りの細かい専門に別れながら、アノ通り夜となく昼となく、浮世を離れた気持になって、全身三十兆の市民の気持を隅から隅まで、反射交感させられているのだ。
……諸君は彼女たちに話しかけてはいけない。
彼女たちは全身の細胞群の中から選み出された反射交感術の専門技手なのだ。だから彼女たちは、普通の交換局の彼女たちと同様に、自分がドンナ事を反射交感しているか……なぞいう事は全然知らないまま、一分一秒の休みもなく呼び出され、呼び出し、切り換え、継ぎ直させられているのだ。……内閣が代ろうが戦争が初まろうが、大地震が初まろうが、大火事になろうが、又は、暑かろうが寒かろうが、頭に蜂が螫《さ》そうが、尻に火が付こうが、頓着している隙《ひま》は無いのだ。彼女たちはタダそうした意識や、判断や、感覚を、全身に反射交感するアンポンタン・ポカン式電池、コード、交感台、コイル、ダイヤル、真空管、等々々に過ぎないのだから……。
だから諸君は彼女たちに話しかけてはいけないのだ。彼女たちに物を考えさせてはいけないのだ。彼女たちにソンナ受持以外の仕事をさせて、彼女たちを二重に疲れさしてはいけないのだ。
そうして彼女たちが、ほかの事を考えなければ考えないほど……単純な反射交感の仕事だけに一心不乱になればなる程、全身の反射交感機能が敏活、迅速を極めて行く。アタマが疲れない。チラチラしなくなる。頭脳明晰……シーク……ホガラカという事になって行くのだ。
ナント簡単明瞭ではないか。アタマが、アンポンタン・ポカンとなるではないか。
吾輩……アンポンタン・ポカン局長はここに於て明言する事が出来る。
この簡単明瞭なる脳髄局のアンポンタン・ポカン式、反射交感組織にシャッポを脱いで、頭脳明晰……意識ホガラカとなったアンポンタン諸君のアタマならば、最早《もはや》、二度と再び脳髄のトリックに引っかからないであろう。脳髄で物を考えないであろう。……そうして最尖端式脳髄学のトップのトップを切った大博士となって、アラユル脳髄関係の不可思議現象を、一挙にアンポンタン・ポカン化し得ると同時に、この人
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