この戦慄すべき脳髄の悪魔振りを正視せよ。
……そうして脳髄に関する一切の迷信、妄信を清算せよ。
人間の脳髄は自ら誇称している。
『脳髄は物を考える処である』
『脳髄は科学文明の造物主である』
『脳髄は現実世界に於ける全智全能の神である』
……と……。
脳髄はこうして宇宙間最大最高級の権威を僭称しつつ、人体の最高所に鎮座して、全身の各器官を奴僕《ぬぼく》の如く駆使している。最上等の血液と、最高等の営養物を全身から搾取しつつ王者の傲《おご》りを極めている。そうして脳髄自身の権威を、どこまでもどこまでも高めて行く一方に、その脳髄の権威を迷信している人類を、日に日に、一歩一歩と堕落の淵に沈淪《ちんりん》させている。
その『脳髄の罪悪史』のモノスゴサを見よ。
吾輩……アンポンタン・ポカンは、アラユル方向から世界歴史を研究した結果、左の如き断定を下すことを得た。
曰《いわ》く……脳髄の罪悪史は左の五項に尽きている……と……。
『人間を神様以上のものと自惚《うぬぼ》れさせた』
これが脳髄の罪悪史の第一ページであった。
『人間を大自然界に反抗させた』
これが、その第二ページであった。
『人類を禽獣《きんじゅう》の世界に逐《お》い返した』
というのがその第三ページであった。
『人類を物質と本能ばかりの虚無世界に狂い廻らせた』
というのがその第四ページであった。
『人類を自滅の斜面《スロープ》へ逐い落した』
それでおしまいであった。
事実は何よりも雄弁である。
医学の歴史を繙《ひもど》けばわかる……。
人間の脳髄というものを、初めて人間の屍体の中に発見したのは西洋医学中興の祖と呼ばれている大科学者ヘポメニアス氏であった。
ところがその近代科学の泰斗《たいと》ヘポメニアス氏の偉大なる脳髄は、頗《すこぶ》る大胆巧妙を極めたトリックを使って、自分が発見した死人の脳髄の機能を、絶対の秘密裡に封じてしまったものである。
すなわちヘポメニアス氏の脳髄は『俺の正体がわかるものか』といわむばかりに、灰白色《はいいろ》の渦巻きをヌタクラせている『死人の脳髄』と、ヘポメニアス氏自身の毛髪|蓬々《ぼうぼう》たる頭蓋骨の中の『生きた脳髄』とを睨み合わせて、あらゆる推理の真剣勝負を開始させたのだ。
……ハテ。これは一体、何の役に立つものであろう。造化の神は何のために、コンナ灰白色の蛇のトグロ巻きみたようなものを、頭蓋骨の屋根裏に納めて御座るのだろう……。
という難問に引っかけて、ヘポメニアス氏の頭を幾日幾夜となく悩まし苦しめたのだ。
……ハアテ……この蛋白質の団塊《かたまり》は、泪《なみだ》と鼻汁の製造場のようにも見えるし、所謂《いわゆる》、章魚《たこ》の糞《くそ》に類似した物のようにも思える。人間と名付くる建築物《たてもの》の屋根裏に在るところを見ると、貴重な滋養分の貯蔵タンクではないかとも思えるし、小腸とおんなじような曲線でヌタクッているところから想像すると、何かの消化器官のようにも考えられる。……ハテ。何だろう……わからないわからない……。
といった風に散々に首をひねらせ、苦心惨憺させ、昏迷疲労させた。そうしてトウトウ何が何だか解らなくしてしまったあげく、ヘポメニアス氏の頭蓋骨の内側を、シンシンと痛み出させたのであった。
偉大なる天才科学者ヘポメニアス氏はここに於て、トウトウ物の美事に、自分の脳髄のトリックに引っかかってしまったのであった。そうして机を叩いて躍り上がったのであった。
「……わかったッ……脳髄は物を考える処だッ。その脳髄を使い過ぎたためにコンナに頭が痛み出して来たんだッ……」
……と……。
そこでその科学者は直ちにメスを執《と》って、その脳髄を取出した屍体の全部を十万分の一ミリメートルの薄さに切り刻《きざ》んだ。そうして人体の各器官を形成する三十兆の細胞群が、隅から隅まで一粒残らず、脳髄を中心とした神経細胞の糸を引き合っている事実を確かめるや否や、死人の脳髄を両手に捧げて、一気に往来へ飛び出した。
「……わかったぞッ。わかったぞッ。何もかもわかったぞッ……。
生命の本源を神様の摂理だなぞというのは嘘だ。神様は人間の脳髄が考え出したものに過ぎないのだ。
……この脳髄を見よ……。
生命の本源はこの千二百|瓦《グラム》、乃至《ないし》、千九百瓦の蛋白質の塊《かた》まりの中に宿っているのだ。吾々の精神意識というものは、この蛋白質の分解作用によって生み出された、一種の化学的エネルギーの刺戟に外ならないのだ。
……すべては脳髄の思召《おぼしめ》しなのだ……。
科学の発見した脳髄こそ、現実世界に於ける全知全能の神様なのだ」
……と……。
当時の基督《キリスト》教の迷信と僧侶の堕落腐敗に飽き果てていた尖端人種は、これを聞くや否や大喝采裡に共鳴した。吾《わ》れも吾れもとヘポメニアス氏の迷説を丸呑みにした。『脳髄は物を考えるところ』という錯覚を、プレミヤム付きで迷信してしまった。
「そうだそうだ。この世界には神様なんか存在しないんだ。すべては物質の作用に外ならないんだ。吾々は吾々の頭蓋骨の中に在る蛋白質の化学作用でもって、新しい唯物文化を創造して行《ゆく》んだぞッ……」
……と……。
かくして物の美事に人間世界から神様を抹消《ノックアウト》した『物を考える脳髄』は、引続いて人間を大自然界に反逆させた。そうして人間のための唯物文化を創造し初めた。
脳髄はまず人間のためにアラユル武器を考え出して殺し合いを容易にしてやった。
あらゆる医術を開拓して自然の健康法に反逆させ、病人を殖《ふや》し、産児制限を自由自在にしてやった。
あらゆる器械を走らせて世界を狭くしてやった。
あらゆる光りを工夫し出して、太陽と、月と、星を駆逐してやった。
そうして自然の児《こ》である人間を片《かた》っ端《ぱし》から、鉄と石の理詰めの家に潜り込ませた。瓦斯《ガス》と電気の中に呼吸させて動脈を硬化させた。鉛と土で化粧させて器械人形《ロボット》と遊戯させた。
そうしてアルコールと、ニコチンと、阿片《アヘン》と、消化剤と、強心剤と、催眠薬と、媚薬と、貞操消毒剤と、毒薬の使い方を教えて、そんなもののゴチャゴチャが生み出す不自然の倒錯美[#「不自然の倒錯美」に傍点]をホントウの人類文化と思い込ませた。……不自然なしには一日も生存出来ないように、人類を習慣づけてしまった。
……そればかりでない……。
人間世界から『神様』をタタキ出し、次いで『自然』を駆逐し去った『物を考える脳髄』は、同時に人類の増殖と、進化向上と、慰安幸福とを約束する一切の自然な心理のあらわれを、人間世界から奪い去った。すなわち父母の愛、同胞の愛、恋愛、貞操、信義、羞恥、義理、人情、誠意、良心なぞの一切合財を『唯物科学的に見て不合理である。だから不自然である』という錯覚の下に否定させて、物質と野獣的本能ばかりの個人主義の世界を現出させた。そうして人類文化を日に日に無中心化させ、自涜《じとく》化させ、神経衰弱化させ、精神異状化させて、遂に全人類を精神的に自滅、自殺化させた虚無世界の十字街頭に、赤い灯、青い灯を慕うノンセンスの幽霊ばかりを彷迷《さまよ》わせるようになってしまった。
『物を考える脳髄』は、かくして知らず識《し》らずの裡《うち》に、人類を滅亡させようとしているのだ。
その脳髄文化の冷血、残酷さを見よ。
これが放任しておかれようか。
そればかりじゃない……。
『物を考える脳髄』は、かくして人間の一人一人を、錯覚の虚無世界に葬り去るべく害悪を逞《たくま》しくする一方に、人類全体のアタマを特別念入りの手品にかけて、木《こ》ッ葉《ぱ》ミジンに飜弄しつくしているのだ。
そうして同時に吾輩……アンポンタン・ポカンの探偵眼を徹底的に眩《くら》ますべく試みているのだ。
……見よ……。
……『脳髄のトリック』に飜弄されつつある『脳髄の悲喜劇』が、いかに夥しく諸君の鼻の先に転がりまわっているかを見よ。『脳髄のノンセンス劇』が如何に真剣に、全世界を舞台として展開されつつあるかを看取せよ。
……看《み》よ……。
『物を考える脳髄』はこの通り人類世界の文化に君臨している。……宇宙万有の秘奥に到るまで、考え得ざるものなし……と誇称しつつ、科学文化のドン底までも支配し指導しつつある。
……ところがドウダ……。
その『アラユル物を考え得る脳髄』が、自分自身に考え出した学理学説と、その学理学説によって生み出した唯物文化の産物を、地球表面上、眼も遥かに、気も遠くなる程ギラギラピカピカと積上げ、並べ立てているそのマッタダ中に、タッタ一ツ、カンジン、カナメの『脳髄自身』に関する科学的の研究ばっかりを、疑問の真暗《まっくら》がりの中にホッタラかしているのはドウシタ事か。宇宙万有の神秘をドン底までも考えつくして来ている脳髄が、脳髄自身の事だけをタッタ一つ考え残しているのはドウシタ訳か。……今日までの科学者の学説、論文の中に、脳髄の作用を的確に説明し得た文献が只の一篇も無いのは何という不思議な現象であろう。
のみならず諸君……もしくは諸君の脳髄の代表者たる全世界の科学者たちの脳髄が、きょうが今日までこの矛盾、不可思議に気付かないでいたのは、何という迂濶《うかつ》さであろう。
……見よ……人間の脳髄は、人間の肉体に関する研究をドコドコ迄も行き届かせている。解剖、生理、病理、遺伝と、あらゆる方面に手を分けて、微に入り、細に亘らせているではないか。病気の治療も同様に、内科、外科、耳鼻科、皮膚科、眼科、歯科と数を悉《つ》くして研究を競わせているではないか。
しかもそのマッタダ中に、そんな研究を編み出した脳髄と、その脳髄に関する病気の研究ばかりを大昔のマンマの『盲目探《めくらさぐ》りの状態』に放置しているのは、何という間の抜けた片手落ちか……精神病の研究のために是非とも必要な精神解剖学、精神生理学、精神病理学、精神遺伝学なぞいう研究科目を、世界中のドコの大学にも分科させないで、所謂《いわゆる》、脳病とか、精神病とかの治療に、あらゆる医者の匙《さじ》を投げさせてしまっているのは、何という脳髄の不行届《ふゆきとどき》であろう。……『人間の生命、もしくは生命意識はドコにドウして宿っているのか』『幻覚はドウして見えるのか』『早発性痴呆とはドコがドウなった事をいうのか』……といったような、誰でも不思議がる『脳髄』関係の重要問題を、これ程に賢明な人間の脳髄が、片《かた》っ端《ぱし》から不得要領の大欠伸《おおあくび》の中に葬り去っているのはソモソモ何という大きな無調法であろう。
占筮者《うらないしゃ》が自分の運命を占い得ないのと同様に、脳髄が脳髄の事を考え得ないのは、当り前の事として誰も怪しまなくなってしまっている。
これが脳髄の悲喜劇でなくて何であろう。
脳髄に飜弄されつつある脳髄たちの大ノンセンス劇でなくて何であろう。
モット手近い、痛切なところでは俗に所謂《いわゆる》『泣き中気《ちゅうき》』とか『笑い中気』とかいうのがある。これは腹が立とうが、ビックリしようが、何でもカンでも感情が動きさえすればおなじ事……泣くか、笑うかの一本槍で、ほかの感情の一切を外へあらわし得ない病気であるが、この病気の説明を脳髄はヤハリ『脳髄が物を考える』式で押し通して行くべく、全世界の科学者に厳命している。だからこの厳命を奉戴した世界中の科学者たちは、こうした中風の症状を「これは脳髄の全体が、出血のために痺《しび》れてしまっているのだ。そうしてその中で『泣く』とか『笑う』とかいうタッタ一つの感情を動かす部分だけが生き残って活動しているのだ。だからその人間に起るすべての感情はその『泣く』か『笑う』かの一箇所の神経細胞の活動によって、表現されるよりほかに行き道がなくなっているのだ。……脳髄は物を考える処……という前提を前提とする以上、ドウしてもそれ以外に説明の仕様がないの
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