極度に面喰らわせ得る謎というのは、取りも直さず「脳髄」そのものに関するソレ[#「ソレ」に傍点]でなくてはならぬ事が必然的に考えられて来るだろう。
 果然と※[#感嘆符二つ、1−8−75] ……一つ脅《おど》かしておくかね。ハハハハハハ。何を隠そうその「脳髄」こそは現代の科学界に於ける最大、最高の残虐、横道《おうどう》を極めた「謎の御本尊」なんだ。人体の各器官の中でもタッタ一つ正体のわからない、巨大な蛋白質製のスフィンクスなんだ。地上二十億の頭蓋骨を朝から晩までガンガンいわせ続けている怪物そのものに外《ほか》ならないのだ。
 人間の脳髄と称する怪物は、身体の中でも一番高い処に鎮座して、人間全身の各器官を奴僕《ぬぼく》の如く追い使いつつ、最上等の血液と、最高等の営養分をフンダンに搾取している。脳髄の命ずるところ行われざるなく、脳髄の欲するところ求められざるなし。何の事はない、脳髄のために人間が存在しているのか、人間のために脳髄が設けられているのか、イクラ考えても見当が付かないという……それ程左様に徹底した専制ぶりを発揮している人体各器官の御本尊、人類文化の独裁君主がこの脳髄様々に外ならないのだ。
 ところが、それはそれとしてここに一つ不思議な事があるのだ。
 それは他事《ほか》でもない、その脳髄と自称する蛋白質の固形物《かたまり》自身が、古往今来、人体の中でドンナ役割をつとめているのか、何の役に立っているものか……という事実を、厳正なる科学的の研究にかけて調べてみると、トドのつまり「わからない」という一点に帰着する事だ。逆にいうとこの脳髄と名付くる怪物は、古今東西の学者たちの脳髄自身に、脳髄ソレ自身のホントウの機能をミジンも感付かせていない事だ。……のみならず……その脳髄自身は、ソレ自身がトテモ一キロや二キロの物質の一塊《いっかい》とは思えないほどの超科学的な怪能力、神秘力、魔力を上下八方に放射して、そうした科学者たちの脳髄ソノモノに対する科学的の推理研究を、片端からメチャメチャに引掻きまわしている。モット手短かにいうと「脳髄が、脳髄ソレ自身の機能を、脳髄ソレ自身に解からせないように解からせないように努力している」とでも形容しようか。従ってその脳髄は、脳髄ソレ自身によって作り出された現代の人類文化の中心を、次第次第にノンセンス化させ、各方面に亘って末梢神経化させ、頽廃《たいはい》させ、堕落させ、迷乱化《めいらんか》させ、悶絶化させつつ、何喰わぬ顔をして頭蓋骨の空洞の中にトグロを巻いているという、悪魔中の悪魔ソレ自身が脳髄ソレ自身になって来るという一事だ。
 むろんこれは吾輩一流の法螺《ほら》やヨタじゃない。吾輩の専門の名誉にかけて断言するのだから……。
 エッ……脳髄は物を考える処だ……と云うのかい。
 そうだよ。みんなそう思っているんだよ。現代一流の科学者は勿論のこと、全世界のありとあらゆる種類、階級の人々は、プロとブルとを押しなべて皆、脳髄で物を考えているつもりで生きているんだ。ラジオも、飛行機も、相対性原理も、ジャズも、安全|剃刀《かみそり》も、赤い理論も、毒|瓦斯《ガス》も何もかも、この一二〇〇|瓦《グラム》以上、一九〇〇|瓦《グラム》以下の蛋白質のカタマリから生み出されたものと確信し切っているのだ。
 成る程、人間の屍体を解剖して、脳髄なるものを覗いてみると、そうした考え方は万々間違いないように見える。大脳、小脳、延髄、松果腺《しょうかせん》なんどと、無量無辺に重なり合っている、奇妙キテレツな恰好をした細胞が、やはり、奇想天外式に変形した神経細胞の突起によって、全身三十兆の細胞の隅から隅までつながり合っている。その連絡系統を研究して行くと結局、人体各部を綜合する細胞の全体が、脳髄を中心にして周到、緻密《ちみつ》、且つ整然たる糸を引合った形になっているのだ。だから人間一切の行動を支配する精神もしくは、生命意識なるものは、脳髄の中に立て籠《こ》もっているのじゃないかしらんと考えられる。少くとも「脳髄は物を考える処」と考えて差支えないように考えられるのだ。
 こうした考え方は現在ではもう人類全般の動かすべからざる信念……もしくは常識となってしまっているのだ。この「脳髄が物を考える処」という事実について今更めかしく疑いを起すものは、ドコを探しても一人も居ない事になっているのだ。現代の燦然《さんぜん》たる文化文物は針一本、紙一枚に到るまでも、一つ残らずこうした「物を考える脳髄」によって考え出されたものである……と演説しても「ノーノー」を叫ぶ者は一人も居ない位にアタマ万能主義の世の中になってしまっているのだ。
 ……然《しか》るにだ……ここで吾輩の脳髄探偵小説は、こうした世界的の大勢を横眼に白眼《にら》んだ一人の青年名探偵、兼、古今未曾有式超特急の脳髄学大博士を飛び出させているのだ。脳髄に関する従来の汎世界的迷信を一挙に根柢から覆滅《ふくめつ》させて、この大悪魔「脳髄」の怪作用……ノンセンスの行き止まり……アンポンタンの底抜けとも形容すべき簡単、明瞭な錯覚作用の真相を、煌々《こうこう》たる科学の光明下に曝《さ》らけ出し、読者の頭をグワ――ンと一撃……ホームランにまで戞飛《かっと》ばさせている……という筋書なんだがドウダイ……読者に受けるか受けないか……。
 ナニ。まだわからない……もう些《すこ》し聞いてみなければ……。
 何だって……空想小説じゃないかって……。怪《け》しからん……。だから一番最初に「科学探偵事実小説」と断っているじゃないか。空想なんてものをコレンバカリも取入れたら、全篇の興味がゼロになってしまうじゃないか。むろんそうだとも……初めから一分一厘ノンセンスものじゃないんだから安心して聞き給え。そんな甘物じゃない事が、その中《うち》にわかって来るんだよ。いいかい……。
 ところでその青年名探偵、兼、脳髄学の大博士は、吾輩が仮りにアンポンタン・ポカン君と名付けている二十歳ばかりの美青年なんだ。いいかい……むろん実在の人物なんだよ。しかもその美青年は古今無双のいい頭を持っているにも拘わらず、非常に危険な遺伝的、精神病の発作にかかったので、この大学に入学すると間もなく、この教室の附属病院に収容する事になった。
 ……ナアニ……ヨタじゃないったら……恐ろしく疑い深い読者だね君は……虚構《うそ》だと思うならイツ何時《なんどき》でも本人に紹介してやるよ。スグこの向うの七号室に居るのだから訳はない。「オイ。ポカン君……」と呼ぶと、ビックリしたように振り返る横顔がタマラなく可愛いよ。
 ところでこのシークボーイ……アンポンタン・ポカン君は、その遺伝発作を起して人事不省に陥ったあとで、ヤット正気を取返すと間もなく、自分の生れ故郷や、両親の名前は勿論のこと、自分自身の名前までもキレイに忘れてしまっている事を、自分自身に気が付いた。そこで取りあえず吾輩からアンポンタン・ポカン博士の名誉ある称号を頂戴している訳だが、ポカン博士自身も元来のアタマが良《い》いだけに、この事が非常に気になるらしく、毎日毎日夜も昼もブッ通しに、病室の中の人造石の床を歩るき廻って、自分の脳髄の事ばかり考えているらしいのだ。……「わからないわからない。いったい僕の脳髄は今まで何をしていたのだろう……何を考えていたのだろう」とか又は「僕の脳髄が僕の全身を支配しているのか……それとも僕の全身が僕の脳髄を支配しているのか……解らない解らない」……といったような事を口走っては、蓬々《ぼうぼう》と伸びた自分の頭の毛を掻きまわしたり、拳固《げんこ》でコツンコツンと後頭部をなぐり付けたりしいしい、一分間も休まずに、部屋の中をグルグルと歩きまわっているのだ。
 ところが、そのうちに、ソンナ発作がダンダンと高潮して来るとポカン博士は、やがて部屋のマン中の人造石の床の上に立止まって不思議そうにキョロキョロとそこいらを見廻わし初める。そうして自分の蓬々たる頭の毛の中から、何かしら眼に見えないものを掴み出して、床の上に力一パイ叩きつける真似をする。それからその床の上にタタキ付けたものを指して、脳髄に関する演説を滔々《とうとう》と、身振《ゼスチュア》まじりに初めるのであるが、そのうちに自分の演説に感激して、興奮の絶頂《クライマクス》に達して来ると、ツイ今しがた自分の頭の中から掴み出して床の上にタタキ付けた眼に見えない或るものを、片足を揚げて一気に踏み潰す真似をすると同時に、ウーンと眼を眩《ま》わして床の上に引っくり返ってしまう。そうして約三四十時間も前後不覚の状態に陥って、昏々《こんこん》と眠り続けると、又もや、アンポンタン・ポカン然として眼球《めだま》をコスリコスリ起上るのだ。そうして前の通りに「わからないわからない」を繰返しながら部屋の中をグルグルと歩るきまわる。その中《うち》に又も、頭の中から眼に見えないものを取り出して足下の床の上にタタキ付ける。前後左右を見まわして、拳固を振り上げながら脳髄の演説を開始する。そうして何だか解からないものを床の上で踏み潰しては、ウーンと云って引っくり返る……というのが、この青年名探偵アンポンタン氏の日課になっているのだ。

 ……ところで面白いのはこのポカン博士の演説なんだ。
 ポカン博士が演説をする時は、何でもどこかの往来の烈しい、電車の交叉点か何かで、繁華な人ゴミの中に立ち止まっているつもりらしい。交通巡査みたいに大手を拡げて、前後左右の群集を睨みまわす恰好をすると、イキナリ拳固を空中に舞わしながら、金切声を振り絞り初めるのだ。
「……止まれッ……。
 ……止まれッ……。
 電車も、自動車も、自転車も、オートバイも、バスも、トラックも、人力車も皆止まれッ……。紳士も、淑女も、モガも、モボも、サラリマンも職業婦人も、ブルもプロも、掏摸《すり》も、巡査も動いてはいけない。
 ……諸君はタッタ今、非常な危険と直面しているのだ。
 ……諸君は現在タッタ今、脳髄で物を考えつつ歩いているだろう。……その脳髄の判断力でもって交通巡査のゴー・ストップを聞き分け、旗振りの青と赤を見分け、飾窓《ショーウインド》の最新流行を批判し、ポスターに新人の出現を知り、夕刊記事の貼出しに話題《トピック》を発見し、掏摸を警戒し、債権者を避け、イットの芳香を追跡しつつ……イヤが上にもその脳髄の感触を高潮させつつ、文化人のプライドをステップしている……つもりでいるだろう。
 ……それが危険だと云うのだ。それが非常だと警告するのだ。……脳髄の非常時……。

 ……見よ。聞け。驚け。呆《あき》れよ……
 ……現代二十億の人類は悉《ことごと》く、諸君と同様の阿呆である。郵便局に自分の引越し先を尋ねに行く頓馬《とんま》である。電話口でこちらの番号を怒鳴る慌て者である。『脳髄』を『物を考えるところ』と錯覚している低能児である。
 そうして、そんなトンチンカンな幻覚錯覚を得意然と肩の上に乗っけて、その錯覚のタッタ一つを唯一無上のタヨリにしつつ『アタマは最上の、最後の資本』『現代はアタマのスピード時代』という倒錯観念の競争場裡に、かくも夥《おびただ》しい電車、自動車、オートバイを飛ばせて、夜を日に継いで人類文化を、ゴチャゴチャの悶絶界に追い込みつつある、諸君自身の脳髄である。
 とてもケンノンで見ていられないではないか。

 ……見よ。聞け。驚け。呆れよ……。
 アンポンタン・ポカンのスローガンだ。
 人類文化の罵倒だ。
 脳髄文明の覆滅だ。
 唯物的科学思想の建てかえ建て直しだ。

 ポカンは宣言する。
 ……『物を考える脳髄』はにんげん[#「にんげん」に傍点]の最大の敵である。……宇宙間、最大最高級の悪魔中の悪魔である。……天地|開闢《かいびゃく》の始め、イーブに智慧の果《このみ》を喰わせたサタンの蛇が、更に、そのアダム、イーブの子孫を呪うべく、人間の頭蓋骨の空洞に忍び込んで、トグロを巻いて潜み隠れた……それが『物を考える脳髄』の前身である……と……。

 ……眼を開け……。
 ……
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