ど》もなく湧き起って、骨も肉もバラバラになるまで笑わなければ、笑い切れない可笑しさであった。
 ……アッハッハッハッハッ。ナアーンだ馬鹿馬鹿しい。名前なんてどうでもいいじゃないか。忘れたってチットモ不自由はしない。俺は俺に間違いないじゃないか。アハアハアハアハアハ………。
 こう気が付くと、私はいよいよたまらなくなって、床の上に引っくり返った。頭を抱えて、胸をたたいて、足をバタバタさせて笑った。笑った……笑った……笑った。涙を嚥《の》んでは咽《む》せかえって、身体《からだ》を捩《よ》じらせ、捻《ね》じりまわしつつ、ノタ打ちまわりつつ笑いころげた。
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……アハハハハ。こんな馬鹿な事が又とあろうか。
……天から降ったか、地から湧いたか。エタイのわからない人間がここに一人居る。俺はこんな人間を知らない。アハハハハハハハ……。
……今までどこで何をしていた人間だろう。そうしてこれから先、何をするつもりなんだろう。何が何だか一つも見当が附かない。俺はタッタ今、生れて初めてこんな人間と識《し》り合いになったのだ。アハハハハハ…………。
……これはどうした事なのだ。何という不思議な、何という馬鹿げた事だろう。アハ……アハ……可笑《おか》しい可笑しい……アハアハアハアハアハ……。
……ああ苦しい。やり切れない。俺はどうしてコンナに可笑しいのだろう。アッハッハッハッハッハッハッ……。
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 私はこうして止《と》め度《ど》もなく笑いながら、人造石の床の上を転がりまわっていたが、そのうちに私の笑い力が尽きたかして、やがてフッツリと可笑しくなくなったので、そのままムックリと起き上った。そうして眼の球《たま》をコスリまわしながらよく見ると、すぐ足の爪先の処に、今の騒動のお名残りの三切れのパンと、野菜の皿と、一本のフォークと、栓《せん》をしたままの牛乳の瓶とが転がっている。
 私はそんな物が眼に付くと、何故という事なしにタッタ一人で赤面させられた。同時に堪え難い空腹に襲われかけている事に気が付いたので、傍に落ちていた帯を締め直すや否や、右手を伸ばして、生温かい牛乳の瓶を握りつつ、左手でバタを塗《な》すくった焼|麺麭《パン》を掴んでガツガツと喰いはじめた。それから野菜サラダをフォークに突っかけて、そのトテモたまらないお美味《いし》さをグルグルと頬張って、グシャグシャと噛んで、牛乳と一緒にゴクゴクと嚥《の》み込んだ。そうしてスッカリ満腹してしまうと、背後《うしろ》に横わっている寝台の上に這い上って、新しいシーツの上にゴロリと引っくり返って、長々と伸びをしながら眼を閉じた。
 それから私は約十五分か、二十分の間ウトウトしていたように思う。満腹したせいか、全身の力がグッタリと脱け落ちて、掌《てのひら》と、足の裏がポカポカと温かくなって、頭の中がだんだんと薄暗いガラン洞になって行く……その中の遠く近くを、いろんな朝の物音が行きかい、飛び違っては消え失せて行く……そのカッタルサ……やる瀬なさ……。
 ……往来のざわめき。急ぐ靴の音。ゆっくりと下駄を引きずる音。自転車のベル……どこか遠くの家で、ハタキをかける音……。
 ……遠い、高い処で鴉《からす》がカアカアと啼《な》いている……近くの台所らしい処で、コップがガチャガチャと壊れた……と思うと、すぐ近くの窓の外で、不意に甲走《かんばし》った女の声……。
「……イヤラッサナア……マアホンニ……タマガッタガ……トッケムナカア……ゾウタンノゴト……イヒヒヒヒヒ……」
 ……そのあとから追いかけるように、私の腹の中でグーグーと胃袋が、よろこびまわる音……。そんなものが一つ一つに溶け合って、次第次第に遥かな世界へ遠ざかって、ウットリした夢心地になって行く……その気持ちよさ……ありがたさ……。
 ……すると、そのうちに、たった一つハッキリした奇妙な物音が、非常に遠い処から聞え初めた。それはたしかに自動車の警笛《サイレン》で、大きな呼子の笛みたように……ピョッ……ピョッ……ピョッピョッピョッピョッ……と響く一種特別の高い音《ね》であるが、何だか恐ろしく急な用事があって、私の処へ馳け付けて来るように思えて仕様がなかった。それが朝の静寂《しじま》を作る色んな物音をピョッピョッピョッピョッと超越し威嚇しつつ、市街らしい辻々をあっちへ曲り、こっちに折れつつ、驚くべき快速力で私の寝ている頭の方向へ駈け寄って来るのであったが、やがて、それが見る見る私に迫り近付いて来て、今にも私の頭のモシャモシャした髪毛《かみのけ》の中に走り込みそうになったところで、急に横に外《そ》れて、大まわりをした。高い高い唸《うな》り声をあげて徐行しながら、一町ばかり遠ざかったようであったが、やがて又方向を換えて、私の耳の穴に沁《し》み入るほどの高い悲鳴を揚《あ》げつつ、急速度で迫り近付いて来たと思うと、間もなくピッタリと停車したらしい。何の物音も聞えなくなった。……同時に世界中がシンカンとなって、私の睡眠がシックリと濃《こま》やかになって行く…………。
 ……と思い思い、ものの五分間もいい心地になっていると、今度は私の枕元の扉の鍵穴が、突然にピシンと音を立てた。続いて扉が重々しくギイイ――ッと開いて、何やらガサガサと音を立てて這入って来た気はいがしたので、私は反射的に跳ね起きて振り返った。……が……眼を定めてよく見るとギョッとした。
 私の眼の前で、緩《ゆる》やかに閉じられた頑丈な扉の前に、小型な籐椅子《とういす》が一個|据《す》えられている。そうしてその前に、一個の驚くべき異様な人物が、私を眼下に見下しながら、雲を衝《つ》くばかりに突立っているのであった。
 それは身長六|尺《しゃく》を超えるかと思われる巨人《おおおとこ》であった。顔が馬のように長くて、皮膚の色は瀬戸物のように生白かった。薄く、長く引いた眉の下に、鯨《くじら》のような眼が小さく並んで、その中にヨボヨボの老人か、又は瀕死《ひんし》の病人みたような、青白い瞳が、力なくドンヨリと曇っていた。鼻は外国人のように隆々と聳《そび》えていて、鼻筋がピカピカと白光りに光っている。その下に大きく、横一文字に閉ざされた唇の色が、そこいらの皮膚の色と一《ひ》と続きに生白く見えるのは、何か悪い病気に罹《かか》っているせいではあるまいか。殊にその寺院の屋根に似たダダッ広い額《ひたい》の斜面と、軍艦の舳先《へさき》を見るような巨大な顎の恰好の気味のわるいこと……見るからに超人的な、一種の異様な性格の持主としか思えない。それが黒い髪毛をテカテカと二つに分けて、贅沢なものらしい黒茶色の毛皮の外套《がいとう》を着て、その間から揺らめく白金色《プラチナいろ》の逞ましい時計の鎖《くさり》の前に、細長い、蒼白《あおじろ》い、毛ムクジャラの指を揉《も》み合わせつつ、婦人用かと思われる華奢《きゃしゃ》な籐椅子の前に突立っている姿はさながらに魔法か何かを使って現われた西洋の妖怪のように見える。
 私はそうした相手の姿を恐る恐る見上げていた。初めて卵から孵化《かえ》った生物《いきもの》のように、息を詰めて眼ばかりパチパチさして、口の中でオズオズと舌を動かしていた。けれどもそのうちに……サテはこの紳士が、今の自動車に乗って来た人物だな……と直覚したように思ったので、吾《わ》れ知らずその方向に向き直って座り直した。
 すると間もなく、その巨大な紳士の小さな、ドンヨリと曇った瞳の底から、一種の威厳を含んだ、冷やかな光りがあらわれて来た。そうして、あべこべに私の姿をジリジリと見下し初めたので、私は何故となく身体《からだ》が縮むような気がして、自ずと項垂《うなだ》れさせられてしまった。
 しかし巨大な紳士は、そんな事を些《すこ》しも気にかけていないらしかった。極めて冷静な態度で、一《ひ》とわたり私の全身を検分し終ると、今度は眼をあげて、部屋の中の様子をソロソロと見まわし初めた。その青白く曇った視線が、部屋の中を隅から隅まで横切って行く時、私は何故という事なしに、今朝眼を醒ましてからの浅ましい所業を、一つ残らず看破《みやぶ》られているような気がして、一層身体を縮み込ませた。……この気味の悪い紳士は一体、何の用事があって私の処へ来たのであろう……と、心の底で恐れ惑いながら……。
 するとその時であった。巨大な紳士は突然、何かに脅やかされたように身体を縮めて前屈《まえこご》みになった。慌てて外套のポケットに手を突込んで、白いハンカチを掴み出して、大急ぎで顔に当てた。……と思う間もなく私の方に身体を反背《そむ》けつつ、全身をゆすり上げて、姿に似合わない小さな、弱々しい咳嗽《せき》を続けた。そうして稍《やや》暫らくしてから、やっと呼吸《いき》が落ち付くと、又、徐《おもむ》ろに私の方へ向き直って一礼した。
「……ドウモ……身体が弱う御座いますので……外套のまま失礼を……」
 それは矢張《やは》り身体に釣り合わない、女みたような声であった。しかし私は、その声を聞くと同時に何かしら安心した気持になった。この巨大な紳士が見かけに似合わない柔和な、親切な人間らしく思われて来たので、ホッと溜息をしいしい顔を上げると、その私の鼻の先へ、恭《うやうや》しく一葉の名刺を差出しながら、紳士は又も咳《せ》き入った。
「……私はコ……ホンホン……御免……ごめん下さい……」
 私はその名刺を両手で受け取りながらチョットお辞儀の真似型をした。

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┌────────────────────┐
│                    │
│                    │
│ 九州帝国大学法医学教授        │
│              若林鏡太郎 │ 
│ 医学部長               │
│                    │
│                    │
└────────────────────┘
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 この名刺を二三度繰り返して読み直した私は、又も唖然《あぜん》となった。眼の前に咳嗽《せき》を抑えて突立っている巨大な紳士の姿をモウ一度、見上げ、見下ろさずにはいられなかった。そうして、
「……ここは……九州大学……」
 と独言《ひとりごと》のように呟《つぶ》やきつつ、キョロキョロと左右を見廻わさずにはおられなくなった。
 その時に巨人、若林博士の左の眼の下の筋肉が、微《かす》かにビクリビクリと震えた。或《あるい》はこれが、この人物独特の微笑ではなかったかと思われる一種異様な表情であった。続いてその白い唇が、ゆるやかに動き出した。
「……さよう……ここは九州大学、精神病科の第七号室で御座います。どうもお寝《やす》みのところをお妨げ致しまして恐縮に堪えませぬが、かように突然にお伺い致しました理由と申しますのは他事《ほか》でも御座いませぬ。……早速ですが貴方は先刻《さきほど》、食事係の看護婦に、御自分のお名前をお尋ねになりましたそうで……その旨を宿直の医員から私に報告して参りましたから、すぐにお伺い致しました次第で御座いますが、如何《いかが》で御座いましょうか……もはや御自分のお名前を思い出されましたでしょうか……御自分の過去に関する御記憶を、残らず御回復になりましたでしょうか……」
 私は返事が出来なかった。やはりポカンと口を開いたまま、白痴のように眼を白黒さして、鼻の先の巨大な顎を見上げていた……ように思う。
 ……これが驚かずにいられようか。私は今朝から、まるで自分の名前の幽霊に附きまとわれているようなものではないか。
 私が看護婦に自分の名前を訊ねてから今までの間はまだ、どんなに長くとも一時間と経っていない、その僅かな間に病気を押して、これだけの身支度をして、私が自分の名前を思い出したかどうかを問い訊すべく駈け付けて来る……その薄気味のわるいスバシコサと不可解な熱心さ……。
 私が、私自身の名前を思い出すという、タッタそれだけの事
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