そう云ううちに壁の向側から、モウ一つ別の新しい物音が聞え初めた。それは平手か、コブシかわからないが、とにかく生身《なまみ》の柔らかい手で、コンクリートの壁をポトポトとたたく音であった。皮膚が破れ、肉が裂けても構わない意気組で叩き続ける弱々しい女の手の音であった。私はその壁の向うに飛び散り、粘り付いているであろう血の痕跡《あと》を想像しながら、なおも一心に眼を瞠《みは》り、奥歯を噛み締めていた。
「……お兄様お兄様お兄様お兄様……お兄様のお手にかかって死んだあたしです。そうして生き返っている妾です。お兄様よりほかにお便《たよ》りする方は一人もない可哀想な妹です。一人ポッチでここに居る……お兄様は妾をお忘れになったのですか……」
「お兄様もおんなじです。世界中にタッタ二人の妾たちがここに居るのです。そうして他人《ひと》からキチガイと思われて、この病院に離れ離れになって閉じ籠められているのです」
「……………………」
「お兄様が返事をして下されば……妾の云う事がホントの事になるのです。妾を思い出して下されば、妾も……お兄様も、精神病患者でない事がわかるのです……タッタ一言……タッタ一コト……御返事をして下されば……モヨコと……妾の名前を呼んで下されば……ああ……お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様……ああ……妾は、もう声が……眼が……眼が暗くなって……」
私は思わず寝台の上に飛乗った。その声のあたりと思われる青黒い混凝土《コンクリート》壁に縋《すが》り付いた。すぐにも返事をしてやりたい……少女の苦しみを助けてやりたい……そうして私自身がどこの何者かという事実を一刻も早く確かめたいという、タマラナイ衝動に駆られてそうしたのであった。……が……又グット唾液《つば》を嚥《の》んで思い止《とど》まった。
ソロソロと寝台の上から辷《すべ》り降りた。その壁の一点を凝視したまま、出来るだけその声から遠ざかるべく、正反対の位置に在る窓の処までジリジリと後退《あとしざ》りをして来た。
……私は返事が出来なかったのだ。否……返事をしてはいけなかったのだ。
私は彼女が私の妻なのかどうか全然知らない人間ではないか。あれ程に深刻な、痛々しい彼女の純情の叫び声を聞きながらその顔すらも思い出し得ない私ではないか。自分の過去の真実の記憶として喚び起し得るものはタッタ今聞いた……ブウウン……ンンン……という時計の音一つしか無いという世にも不可思議な痴呆患者の私ではないか。
その私が、どうして彼女の夫《おっと》として返事してやる事が出来よう。たとい返事をしてやったお蔭《かげ》で、私の自由が得られるような事があったとしても、その時に私のホントウの氏素性《うじすじょう》や、間違いのない本名が聞かれるかどうか、わかったものではないではないか。……彼女が果して正気なのか、それとも精神病患者なのかすら、判断する根拠を持たない私ではないか……。そればかりじゃない。
万一、彼女が正真正銘の精神病患者で、彼女のモノスゴイ呼びかけの相手が、彼女の深刻な幻覚そのものに外《ほか》ならないとしたら、どうであろう。私がウッカリ返事でもしようものなら、それが大変な間違いの原因《もと》にならないとは限らないではないか。……まして彼女が呼びかけている人間が、たしかにこの世に現在している人間で、しかも、それが私以外の人間であったとしたらどうであろう。私は自分の軽率《かるはずみ》から、他人の妻を横奪《よこど》りした事になるではないか。他人の恋人を冒涜《ぼうとく》した事になるではないか……といったような不安と恐怖に、次から次に襲われながら、くり返しくり返し唾液《つば》を嚥《の》み込んで、両手をシッカリと握り締めているうちにも、彼女の叫び声は引っ切りなしに壁を貫いて、私の真正面から襲いかかって来るのであった。
「お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様。あんまりですあんまりですあんまりですあんまりですあんまりです……」
そのかよわい……痛々しい、幽霊じみた、限りない純情の怨みの叫び……。
私は頭髪《かみ》を両手で引掴んだ。長く伸びた十本の爪《つめ》で、血の出るほど掻きまわした。
「……お兄さまお兄さまお兄さま。妾は貴方《あなた》のものです。貴方のものです。早く……早く、お兄様の手に抱き取って……」
私は掌《てのひら》で顔を烈しくコスリまわした。
……違う違う……違います違います。貴女《あなた》は思い違いをしているのです。僕は貴女を知らないのです……。
……とモウすこしで叫びかけるところであったが、又ハッと口を噤《つぐ》んだ。そうした事実すらハッキリと断言出来ない今の私……自分の過去を全然知らない……彼女の言葉を否定する材料を一つも持たない……親兄弟や生れ故郷は勿論の事……自分が豚だったか人間だったかすら、今の今まで知らずにいた私……。
私は拳骨《げんこつ》を固めて、耳の後部《うしろ》の骨をコツンコツンとたたいた。けれどもそこからは何の記憶も浮び出て来なかった。
それでも彼女の声は絶えなかった。息も切れ切れに……殆ど聞き取る事が出来ないくらい悲痛に深刻に高潮して行った。
「……お兄さま……おにいさま……どうぞ……どうぞあたしを……助けて……助けて……ああ……」
私はその声に追立てられるように今一度、四方の壁と、窓と、扉《ドア》を見まわした。駈け出しかけて又、立止まった。
……何にも聞えない処へ逃げて行きたい……。
と思ううちに、全身がゾーッと粟立《あわだ》って来た。
入口の扉《ドア》に走り寄って、鉄かと思われるほど岩乗《がんじょう》な、青塗の板の平面に、全力を挙げて衝突《ぶつか》ってみた。暗い鍵穴を覗いてみた。……なおも引続いて聞こえて来る執念深い物音と、絶え絶えになりかけている叫び声に、痺《しび》れ上るほど脅《おび》やかされながら……窓の格子を両手で掴んで力一パイゆすぶってみた。やっと下の方の片隅だけ引歪《ひきゆが》める事が出来たが、それ以上は人間の力で引抜けそうになかった。
私はガッカリして部屋の真中に引返して来た。ガタガタ慄《ふる》えながらモウ一度、部屋の隅々を見まわした。
私はイッタイ人間世界に居るのであろうか……それとも私はツイ今しがたから幽瞑《あのよ》の世界に来て、何かの責苦《せめく》を受けているのではあるまいか。
この部屋で正気を回復すると同時に、ホッとする間もなく、襲いかかって来た自己忘却の無間《むげん》地獄……何の反響も無い……聞ゆるものは時計の音ばかり……。
……と思う間もなくどこの何者とも知れない女性の叫びに苛責《さい》なまれ初めた絶体絶命の活《いき》地獄……この世の事とも思われぬほど深刻な悲恋を、救うことも、逃げる事も出来ない永劫《えいごう》の苛責……。
私は踵《かかと》が痛くなるほど強く地団駄《じだんだ》を踏んだ……ベタリと座り込んだ…………仰向けに寝た……又起上って部屋の中を見まわした。……聞えるか聞えぬかわからぬ位、弱って来た隣室《となり》の物音と、切れ切れに起る咽《むせ》び泣きの声から、自分の注意を引き離すべく……そうして出来るだけ急速に自分の過去を思い出すべく……この苦しみの中から自分自身を救い出すべく……彼女にハッキリした返事を聞かすべく……。
こうして私は何十分の間……もしくは何時間のあいだ、この部屋の中を狂いまわったか知らない。けれども私の頭の中は依然として空虚《からっぽ》であった。彼女に関係した記憶は勿論のこと、私自身に就《つ》いても何一つとして思い出した事も、発見した事もなかった。カラッポの記憶の中に、空《から》っぽの私が生きている。それがアラレもない女の叫び声に逐《お》いまわされながら、ヤミクモに藻掻《もが》きまわっているばかりの私であった。
そのうちに壁の向うの少女の叫び声が弱って来た。次第次第に糸のように甲走《かんばし》って来て、しまいには息も絶え絶えの泣き声ばかりになって、とうとう以前《もと》の通りの森閑とした深夜の四壁に立ち帰って行った。
同時に私も疲れた。狂いくたびれて、考えくたびれた。扉《ドア》の外の廊下の突当りと思うあたりで、カックカックと調子よく動く大きな時計の音を聞きつつ、自分が突立っているのか、座っているのか……いつ……何が……どうなったやらわからない最初の無意識状態に、ズンズン落ち帰って行った……。
……コトリ……と音がした。
気が付くと私は入口と反対側の壁の隅に身体《からだ》を寄せかけて、手足を前に投げ出して、首をガックリと胸の処まで項垂《うなだ》れたまま、鼻の先に在る人造石の床の上の一点を凝視していた。
見ると……その床や、窓や、壁は、いつの間にか明るく、青白く光っている。
……チュッチュッ……チョンチョン……チョン……チッチッチョン……。
という静かな雀《すずめ》の声……遠くに辷《すべ》って行く電車の音……天井裏の電燈はいつの間にか消えている。
……夜が明けたのだ……。
私はボンヤリとこう思って、両手で眼の球《たま》をグイグイとコスリ上げた。グッスリと睡ったせいであったろう。今朝、暗いうちに起った不可思議な、恐ろしい出来事の数々を、キレイに忘れてしまっていた私は、そこいら中が変に剛《こわ》ばって痛んでいる身体を、思い切ってモリモリモリと引き伸ばして、力一パイの大きな欠伸《あくび》をしかけたが、まだ充分に息を吸い込まないうちに、ハッと口を閉じた。
向うの入口の扉《ドア》の横に、床とスレスレに取付けてある小さな切戸が開いて、何やら白い食器と、銀色の皿を載せた白木の膳《ぜん》が這入って来るようである。
それを見た瞬間に、私は何かしらハッとさせられた。無意識のうちに今朝からの疑問の数々が頭の中で活躍し初めたのであろう。……吾《われ》を忘れて立上った。爪先走りに切戸の傍《かたわら》に駈け寄って、白木の膳を差入れている、赤い、丸々と肥った女の腕を狙《ねら》いすまして無手《むず》と引っ掴んだ。……と……お膳とトースト麺麭《パン》と、野菜サラダの皿と、牛乳の瓶とがガラガラと床の上に落ち転がった。
私はシャ嗄《が》れた声を振り絞った。
「……どうぞ……どうぞ教えて下さい。僕は……僕の名前は、何というのですか」
「……………………」
相手は身動き一つしなかった。白い袖口《そでぐち》から出ている冷めたい赤大根みたような二の腕が、私の左右の手の下で見る見る紫色になって行った。
「……僕は……僕の名前は……何というのですか。……僕は狂人《きちがい》でも……何でもない……」
「……アレエ――ッ……」
という若い女の悲鳴が切戸の外で起った。私に掴まれた紫色の腕が、力なく藻掻《もが》き初めた。
「……誰か……誰か来て下さい。七号の患者さんが……アレッ。誰か来てェ――ッ……」
「……シッシッ。静かに静かに……黙って下さい。僕は誰ですか。ここは……今はいつ……ドコなんですか……どうぞ……ここは……そうすれば離します……」
……ワ――アッ……という泣声が起った。その瞬間に私の両手の力が弛《ゆる》んだらしく、女の腕がスッポリと切戸の外へ脱《ぬ》け出したと思うと、同時に泣声がピッタリと止んで、廊下の向うの方へバタバタと走って行く足音が聞えた。
一所懸命に縋《すが》り付いていた腕を引き抜かれて、ハズミを喰《くら》った私は、固い人造石の床の上にドタリと尻餅《しりもち》を突いた。あぶなく引っくり返るところを、両手で支え止めると、気抜けしたようにそこいらを見まわした。
すると……又、不思議な事が起った。
今まで一所懸命に張り詰めていた気もちが、尻餅を突くと同時に、みるみる弛んで来るに連《つ》れて、何とも知れない可笑《おか》しさが、腹の底からムクムクと湧き起り初めるのを、どうすることも出来なくなった。それは迚《とて》もタマラナイ程、変テコに可笑しい……頭の毛が一本|毎《ごと》にザワザワとふるえ出すほどの可笑しさであった。魂のドン底からセリ上って、全身をゆすぶり上げて、あとからあとから止《と》め度《
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