たようであった。同時に、私が呆然となっているのを、何か他の意味で面喰っているものと感違いしたらしく、微《かす》かに二三度うなずきながら唇を動かした。
「……御尤《ごもっと》もです。不思議に思われるのは御尤も千万です。元来、法医学の立場を厳守していなければなりませぬ私が、かように精神病科の仕事に立入りますのは、全然、筋違いに相違ないので御座いますが、しかし、これにつきましては、万止むを得ませぬ深い事情が……」
と云いさした若林博士は、又も、咳嗽《せき》が出そうな身構えをしたが、今度は無事に落付いたらしい。ハンカチの蔭で眼をしばたたきながら、息苦しそうに言葉を続けた。
「……と申しますのは、ほかでも御座いません。……実を申しますとこの精神病科教室には、ついこの頃まで正木敬之《まさきけいし》という名高いお方が、主任教授として在任しておられたので御座います」
「……マサキ……ケイシ……」
「……さようで……この正木敬之というお方は、独り吾国のみならず、世界の学界に重きをなしたお方で、従来から行詰《ゆきつま》ったままになっております精神病の研究に対して、根本的の革命を起すべき『精神科学』に対す
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