…という時計の音一つしか無いという世にも不可思議な痴呆患者の私ではないか。
 その私が、どうして彼女の夫《おっと》として返事してやる事が出来よう。たとい返事をしてやったお蔭《かげ》で、私の自由が得られるような事があったとしても、その時に私のホントウの氏素性《うじすじょう》や、間違いのない本名が聞かれるかどうか、わかったものではないではないか。……彼女が果して正気なのか、それとも精神病患者なのかすら、判断する根拠を持たない私ではないか……。そればかりじゃない。
 万一、彼女が正真正銘の精神病患者で、彼女のモノスゴイ呼びかけの相手が、彼女の深刻な幻覚そのものに外《ほか》ならないとしたら、どうであろう。私がウッカリ返事でもしようものなら、それが大変な間違いの原因《もと》にならないとは限らないではないか。……まして彼女が呼びかけている人間が、たしかにこの世に現在している人間で、しかも、それが私以外の人間であったとしたらどうであろう。私は自分の軽率《かるはずみ》から、他人の妻を横奪《よこど》りした事になるではないか。他人の恋人を冒涜《ぼうとく》した事になるではないか……といったような不安と恐怖に
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