コレダケ[#「コレダケ」に傍点]が最後の、唯一の疑問として残って行く……。
……私は誰だろう……誰だろう……私の過去とこの事件の間にはドンナ因果関係が結ばれているのだろう……。
[#ここで字下げ終わり]
……とこう考えては今日の記憶を繰返し、くり返しては又考え直しつつ、暗雲《やみくも》に足を早めたり、緩《ゆる》めたりして歩いて行った。……遠く近くで打出す半鐘《はんしょう》の音……自動車ポンプの唸《うな》り……子供の泣き声、機《はた》を織る響《ひびき》……どこかの工場で吹出す汽笛の音……と次から次へ無意識の裡《うち》に耳にしながら、右に曲り、左に折れしていたが、そのうちに私は又、突然に土を蹴って立ち止った。気絶する程ドキンとして首を縮めながら立ち竦《すく》んだ。
……大変だ。あの絵巻物を、あのままにして来た。
……あの絵巻物のお終《しま》いの処にある千世子の筆蹟は誰にも見せてはならぬ……。
……正木博士が見たら発狂するか……本当に自殺するかも知れぬ……。
……タタ大変だッ……。
私は思わず飛び上った。そうしてその次の瞬間にはクルリとうしろを向いて、どこか判らぬ真暗《まっくら》になった田舎道を一直線に駆け出していた。
やがて明るい、美しい街筋に走り込んだ……。
間もなく暗いゴミゴミした横町を突き抜けた……。
三味線や太鼓の音の聞える眩《まぶ》しい通りを飛んで行った……。
電燈の並んだ防波堤を三方|海原《うなばら》の行き止まりまで来てビックリして引き返した……。
いろんな店の品物や、電車や、自動車や人ゴミが走馬燈《まわりどうろう》のように後《うしろ》へ後へと辷《すべ》った……。
汗と涙で見えなくなる眼をコスリコスリ元来た方へ元来た方へと急いだ……。
……眼が眩《くら》んで、息が切れて、そこいらが明るくなったり暗くなったりしたように思う。
……眼の前に灰色の鳥が無数に乱れ飛んでは消えて行ったように思う。
……いつの間にか往来に倒れているのを誰か扶《たす》け起してくれたように思う。そうしてそれを振り離して、又駆け出したようにも思う。
そんな事を繰り返して行くうちに私はとうとう何もかも判らなくなってしまった。何のために走って行くのか。どっちの方向へ行こうとしているのか考えようともしないようになった。時々見えたり聞えたりするものを夢うつつのように感じたが、終《しま》いにはその夢うつつさえ感じられなくなるまで恍惚として蹌踉《よろめ》いて行った……ように思う。
それから何時間経ったか、何日経ったか判らない……。
フト身体《からだ》中がゾクゾクと寒気立《さむけだっ》て来たようなので気がついて見ると、私はいつの間にか最前《さっき》の九州帝国大学精神病科の教授室に帰っていて、最前腰をかけていた回転椅子に、最前のように腰をかけて、大|卓子《テーブル》の緑色の羅紗《らしゃ》の上に両手を投げ出したまま突伏《つっぷ》しているのであった。
私はチョットの間、夢を見ているのではないかと疑った。先刻《さっき》……正午《ひる》頃にこの室を飛び出してから、方々を歩きまわって、見たり聞いたりした色々の出来事や、考えまわしたいろんな不思議な事……又はその間に感じたタマラナイ恐ろしさや息苦しさは、みんなここにこうして気絶している間に見た夢ではなかったかと疑ってみた。そうして気味わる気味わると自分の身のまわりを見まわして見たのであった。
私の服もシャツも、穿《は》いている靴も、汗と塵埃《ほこり》にまみれて真白になっている。両方の肱や膝は大きく破れたり泥まみれになったりして、ボタンが二つ程ちぎれて、カラーが右の肩にブラ下っている姿は恰度《ちょうど》、酔漢《よいどれ》と乞食との混血児《あいのこ》を見るようである。左の手の甲に真黒く血が固まり附いているのはどこを怪我したのであろう。別段に痛い処も痒《かゆ》い処もないが……併し眼と口の中が砂ホコリで一パイになっているらしく、瞼《まぶた》がヒリヒリして歯の間がガリガリするその不愉快さ……。
私はその眼と口を今一度、机の上に突伏せながら、ジット後先《あとさき》を考えて見たが、一体何しにここへ帰って来たのか、どうしても思い出せなかった。机の端に置き忘れて行った新しい角帽を凝視《みつめ》ながらその時の気持を思い出そう思い出そうと努力したが、この時に限って不思議な程、私の聯想力が弱っていた……何かしら非常に重大な品物か何かをこの室に忘れて、それを取りに帰って来たようにも思うのだが……と思い思いソロソロと頭を上げて前後左右を見まわして見ると、私の頭の上には大きな白熱電球が煌々《こうこう》と輝いている。
入口の扉《ドア》は半分|開《あ》いたままになっている。
しかし、大|卓子《テーブル》の上の書類は誰
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