つ、その白い曇りの魅力にかけて私を散々に弄《もてあそ》んでいるではないか……思い出されない事を思い出させ、考えられない事を考えさせ、見えないものを見させようとしているではないか……消え失せた過去の記憶を求めさせ、自分でない自分の身の上を考えさせ、ありもしない事件の真相を無理やりに探させつつ、迷わせ、狂わせ、泣かせ、笑わせているではないか……。キチガイ地獄以上のキチガイ地獄の中にノタ打ち廻らせているではないか……。
……おお……何という恐ろしい魔力……。
……眼の前の空間を凝視して、ここまで考えて来た私の、大きく見開いた眼の底の大虚空に、あの死後五十日目の黛《たい》夫人の冷笑のまぼろしが、又もアリアリと現われて来た。
それを私は消え失せるまで白眼《にら》み付けた。
……畜生……どうするか見ろ……。
こう思うと私は、何かしらこの絵巻物の中から、一切の神秘と不可解とを、一挙に打ち破るに足る或る恐るべき秘密の鍵を発見しそうな予感に打たれつつ、唇を強く噛み締めた。二人の博士と私を苦しめている魔力の正体を一撃の下に曝露するに足るあるもの[#「あるもの」に傍点]……まだ何んにも気付かれずに残っている意外千万なあるもの[#「あるもの」に傍点]がこの絵巻物のどこかに潜んでいそうな一種の霊感に満たされつつ手早く絵巻物の紐《ひも》を解いた。その序《ついで》に腕時計を見ると、ちょうど十二時に十分前である。正面の電気時計は十一分前であるが、これはもう長い針がXの字の処へ飛ぼうとしている間際かも知れない。
絵巻物の軸になっている緑色の石の処に息を吐きかけてみると、誰のともわからぬ指紋が重なり合って見えるようであるが、これは先刻《さっき》私がイジクリまわした跡だと気が付いたので苦笑しいしい巻物を取り直した。こんな迂濶《うかつ》な事では駄目だぞ……と自分で自分を冷罵しながら……。
表装の刺繍と内部の紺色の紙の上に、細く光る繊維みたようなものが、数限りなく粘り付いているが、これは嘗てこの絵巻物を真綿か何かで包んでいた遺跡であろう。鼻に当てて嗅いでみると、黴臭《かびくさ》いにおいと、軽い樟脳《しょうのう》みたような香気が一緒になった中から、どこともなく奥床《おくゆか》しい別の匂いがして来るようであるが、なおよく気を落ち付けて嗅ぎ直して見ると、それは私が初めて嗅ぎ出したものではないかと思われる程の淡い、上品な香水の匂いに違いない事が解った。
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……面白いナ。この調子で行くと、まだ色んな物が発見出来そうだぞ。この黴臭い匂いと樟脳に似た木の香《か》が弥勒様の木像の中で滲《し》み込んだものである事は、誰でも考え付く事であろうが、併し、この香水の匂いにはチョット気の付く者がいなかったであろう。そうしてこの床《ゆか》しい芳香は、この絵巻物の前の持主を暗示するものでなくて何であろう。
……占めた。もしもこの上に、まだ誰にも気付かれていない何物かが在ったら最後……それは一本の髪の毛でも煙草の屑でもいい……犯人を決定する有力な材料になるのだぞ……
[#ここで字下げ終わり]
……とさながらに自分自身が名探偵にでもなったように考えつつ、一層|勢付《いきおいづ》いて来た私は、絵巻物を頭の方から、逆に捲き込みながら、絵の処から由来記の文章の終っているところまで、裏表とも叮嚀に見て行ったが、先刻《さっき》は意地にも我慢にも正視出来なかった死美人の腐敗像が、今度は愛想《あいそ》もこそ[#「こそ」に傍点]もない只の顔料の配列としか見えなくなっているのには尠《すく》なからず驚かされた。而《しか》も、それは決して光線の具合でも何でもなかった。黛夫人の腐れ破れた唇から見え透く歯並の美しいところ、臓腑が瓦斯《ガス》を包んで滑らかに膨れ光っているところまで、細かに注意して見たが、何ともないものは、いくら見ても何ともない。私は人間の神経作用の馬鹿馬鹿しさにスッカリ張り合いが抜けてしまった。
……しかし……と思って尚《なお》よく注意してみると、初めの方は紙の地が幾分ボヤケているが、由来記のおしまいの方に近づけば近づく程、紙の表面がスベスベして上光りがしている。これは無理もない話で、最初に筆を執った呉青秀からして、初めの方ほど余計に開いたり捲いたりしたに決っている。又、その後《のち》この絵巻物を開いて見た呉家の先祖代々の者も同様で、最初私がした通りに、初めの完全な姿に近い所ほど念を入れて見たわけで、これは人情からいっても止むを得ないであろう……巻物の裏一面に何かキラキラ光る淡褐色の液体を塗ってある上に指の跡みたような白い丸いものが処々附いているようであるが、あまり滑らかでない紙の下から、粗い布目が不規則に浮き出しているのだから、何の痕跡《あと》だかハッキリと見分け難《
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