》になっておられた、あのお兄さまということだけは記憶《おぼ》えておいでになるのですね」
 少女はうなずいた。そうして前よりも一層|烈《はげ》しい、高い声で泣き出した。
 それは、何も知らずに聞いていても、真《まこと》に悲痛を極めた、腸《はらわた》を絞るような声であった。自分の恋人の名前を思い出す事が出来ないために、その相手とは、遥かに隔たった精神病患者の世界に取り残されている……そうして折角《せっかく》その相手にめぐり合って縋り付こうとしても、素気《そっけ》なく突き離される身の上になっていることを、今更にヒシヒシと自覚し初めているらしい少女の、身も世もあられぬ歎きの声であった。
 男女の相違こそあれ、同じ精神状態に陥って、おなじ苦しみを体験させられている私は、心の底までその嗄《か》れ果てた泣声に惹き付けられてしまった。今朝、暗いうちに呼びかけられた時とは全然《まるで》違った……否あの時よりも数層倍した、息苦しい立場に陥《おとしい》れられてしまったのであった。この少女の顔も名前も、依然として思い出す事が出来ないままに、タッタ今それを思い出して、何とかしてやらなければ堪《た》まらないほど痛々しい少女の泣声と、そのいじらしい背面《うしろ》姿が、白い寝床の上に泣伏して、わななき狂うのを、どうする事も出来ないのが、全く私一人の責任であるかのような心苦しさに苛責《さい》なまれて、両手を顔に当てて、全身に冷汗を流したのであった。気が遠くなって、今にもよろめき倒れそうになった位であった。
 けれども若林博士は、そうした私の苦しみを知るや知らずや、依然として上半身を傾けつつ、少女の肩をいたわり撫でた。
「……さ……さ……落ち付いて……おちついて……もう直《じ》きに思い出されます。この方も……あなたのお兄さまも、あなたのお顔を見忘れておいでになるのです。しかし、もう間もなく思い出されます。そうしたら直ぐに貴女にお教えになるでしょう。そうして御一緒に退院なさるでしょう。……さ……静かにおやすみなさい。時期の来るのをお待ちなさい。それは決して遠いことではありませんから……」
 こう云い聞かせつつ若林博士は顔を上げた。……驚いて、弱って、暗涙《あんるい》を拭い拭い立ち竦《すく》んでいる私の手を引いて、サッサと扉の外に出ると、重い扉を未練気もなくピッタリと閉めた。廊下の向うの方で、鶏頭の花をいじっている附添の婆さんを、ポンポンと手を鳴らして呼び寄せると、まだ何かしら躊躇している私を促しつつ、以前の七号室の中に誘い込んだ。
 耳を澄ますと、少女の泣く声が、よほど静まっているらしい。その歔欷《すす》り上げる呼吸の切れ目切れ目に、附添の婆さんが何か云い聞かせている気はいである。
 人造石の床の上に突立った私は、深い溜息を一つホーッと吐《つ》きながら気を落ち付けた。とりあえず若林博士の顔を見上げて説明の言葉を待った。
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……今の今まで私が夢にも想像し得なかったばかりか、恐らく世間の人々も人形以外には見た事のないであろう絶世の美少女が、思いもかけぬ隣りの部屋に、私と壁|一重《ひとえ》を隔てたまま、ミジメな精神病患者として閉じ籠められている。
……しかもその美少女は、私のタッタ一人の従妹《いとこ》で、私と許嫁の間柄になっているばかりでなく「一千年前の姉さんのお婿《むこ》さんであった私」というような奇怪極まる私[#「奇怪極まる私」に傍点]と同棲している夢を見ている。
……のみならずその夢から醒めて、私の顔を見るや否や「お兄さま」と叫んで抱き付こうとした。
……それを私から払い除《の》けられたために、床の上へ崩折《くずお》れて、腸《はらわた》を絞るほど歎き悲しんでいる……
[#ここで字下げ終わり]
 というような、世にも不可思議な、ヤヤコシイ事実に対して、若林博士がドンナ説明をしてくれるかと、胸を躍らして待っていた。
 けれども、この時に若林博士は何と思ったか、急に唖《おし》にでもなったかのように、ピッタリと口を噤《つぐ》んでしまった。そうして冷たい、青白い眼付きで、チラリと私を一瞥しただけで、そのまま静かに眼を伏せると、左手で胴衣《チョッキ》のポケットをかい探って、大きな銀色の懐中時計を取り出して、掌《てのひら》の上に載せた。それからその左の手頸に、右手の指先をソッと当てて、七時三十分を示している文字板を覗き込みながら、自身の脈搏を計り初めたのであった。
 身体《からだ》の悪い若林博士は、毎朝この時分になると、こうして脈を取ってみるのが習慣になっているのかも知れなかった。しかし、それにしても、そうしている若林博士の態度には、今の今まで、あれ程に緊張していた気持が、あとかたも残っていなかった。その代りに、路傍でスレ違う赤の他人と同様の冷淡さが、あら
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