「……ソ……ソ……そんな訳じゃない……実はお前は……君は呉一郎の……呉一郎が……」
 こう云ううちに正木博士の態度が、シドロモドロに崩れて来た。天地が引っくり返っても平気の平左《へいざ》と思われたその大胆不敵な、浅黒い顔色が、みるみる真赤になり、又たちまち真青に変化した。中腰になって両手を伸ばしつつ、私の言葉を遮《さえざ》り止めようとして狼狽《ろうばい》している態度が、新しく新しく湧き出る私の涙越《なみだごし》にユラユラと揺らめき泳いだ。しかし私は皆まで聞かなかった。
「嫌です嫌です。僕が呉一郎の何に当ろうが……どんな身の上だろうが同じ事です。誰が聞いたって罪悪は罪悪です」
「……………」
「先生方は、そんな学術研究でも何でも好き勝手な真似をして、御随意に死んだり生きたりなすったらいいでしょう……しかし先生方が、その学術研究のオモチャにしておしまいになった呉家の人達はドウなるのですか……呉家の人達は先生方に対して何一つわるい事をしなかったじゃありませんか。そればかりじゃありません。先生方を信じて、尊敬して、慕ったり、便《たよ》り縋《すが》ったりしているうちに、その先生方に欺瞞《だま》されたり、キチガイにされたりしているじゃないですか。この世に又とないくらい恐ろしい学術実験用の子供を生まされたりしているじゃないですか。そんな人々の数えても数え切れない怨みの数々を、先生方は一体どうして下さるのですか。……死ぬ程、愛し合っている親子同志や恋人同志が、先生方の手で無理やりに引離されて、地獄よりも、非道《ひど》い責苦を見せられているのを、先生方はどうして旧態《もと》に返して下さるのです。唯、学術の研究さえ出来れば、ほかの事はドウなっても構わないと仰言《おっしゃ》るのですか」
「……………」
「御自分で手を下しておいでにならなくとも、おんなじ事ですよ。その罪の告白を、他人に発表させておけば、それで何もかも帳消しになると思っておいでになるのですか……良心に責められているだけで、罪は浄《きよ》められると思っておいでになるのですか」
「……………」
「……あんまり……あんまり……非道《ひど》いじゃありませんか」
「……………」
「……セ……先生ッ……」
 と叫ぶと眼が眩《くら》みそうになった私は、思わず大|卓子《テーブル》の上に両手を支えた。新しく湧き出す熱い涙で何もかも見えなくなったまま、呼吸《いき》を喘《はず》ませた。
「……後生ですから……後生ですから……その罰を受けて下さいませんか……そうして……そんな気の毒な人達の犠牲を無駄にしないようにして下さいませんか……喜んで……心から感謝してその研究の発表を、僕に引受けさして下さいませんか」
「……………」
「その罰の手初めには、若林博士を僕が引張って来て、先生の前で謝罪させます。恋の怨みだったかドウか……どうしてコンナ恐ろしい……非道い事をしたか……白状させます……」
「……………」
「……それから先生と、若林博士とお二人で、被害者の人達に謝罪して下さい。その斎藤先生の肖像と、直方《のうがた》で殺された千世子の墓と、それからあの狂人《きちがい》の呉一郎と、モヨ子と、お八代さんの前に行って、一人一人になすった事を懺悔《ざんげ》して下さい。学術研究のためだった……と云って、心からお二人であやまって下さい……」
「……………」
「お願いというのはそれだけです。……ドウゾ……ドウゾ……後生ですから……僕が……こうして……お願いしますから……」
「……………」
「……ソ……そうすれば……僕はドウなっても構いません。手でも足でも、生命《いのち》でも何でも差上げます。……この研究を引継げと仰言《おっしゃ》れば……一生涯かかっても……一切の罪を引き受けても……」
 私はタマラなくなって両手で顔を蔽《おお》うた。その指の間を涙が迸《ほとばし》り流れた。
「……コ……コンナ非道い……冷血な罪悪……ああ……ああ……僕はモウ頭が……」
 私は大|卓子《テーブル》の上に崩折《くずお》れ伏した。声を立てまいとしても押え切れない声が両手の下から咽《むせ》び出た。
「……ス……済みませんが……僕に……みんなの……か……讐《かたき》を取らして下さい……」
「……………」
「……この研究を……シ……神聖にして下さい……」
「……………」
「……………」
 ……コツコツ……コツコツ……と入口の扉《ドア》をたたく音……。
 ……私はハッと気が付いた。慌ててポケットからハンカチを取り出して、涙に濡れた顔を拭いまわしながら、正木博士の顔を見上げると……ギョッとして息が詰った……。
 それは昂奮の絶頂まで昇り詰《つめ》ていた私の感情を、一時に縮み込ませてしまった程恐ろしい、鬼のような形相であった。……瀬戸物のように血の気を喪《うしな》っ
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