呼吸《いき》が鎮《しず》まりかけると間もなく、わざとらしい驚いた顔付きで問うた。
「……どうしたんだい。急に立上ったりして……」
私は喘《あえ》ぎながら答えた。
「……もし僕が……呉一郎に……この絵巻物を……見せた本人……」
「アッハッハッハッハッ……ワッハッハッハッハッハッ……」
正木博士は、私の云う事を半分聞かぬうちに大袈裟《おおげさ》に吹き出して反《そ》りかえった。
「ハッハッハッハッ。君が加害者で、呉一郎が被害者か。これあいい。探偵小説なら古今の名トリックだが、多分そんな事になるだろうと思っていた。アッハッハッハッハッ。しかしだね。事実はその正反対だったら、どうなるかね、この事件は……」
「……エッ……正反対?……」
「ハッハッハッ。何も君が、そんなに遠慮して、加害者の憎まれ役を引受けなくとも、いいじゃないか。どうせ君と呉一郎とは瓜二つなんだから、御都合によっては吾輩の小手先一つで、加害者側へでも、被害者側へでも、どちらへでも廻せるんだがどうだい。どうせ同じ事なら、被害者側へまわった方が、この事件では得になるんだがドウダイ。アハアハアハアハ……」
私はドシンと椅子に腰を卸《おろ》した。又しても何が何やらわからなくなったまま……。
「……どうも、そう一々泡を喰っちゃ困るぜ。……だから最初っから注意しておいたじゃないか。この事件は、よほど頭を緊《しっか》りさせて研究しないと、途中で飛んでもない錯覚に陥る虞《おそ》れがあると云って警告しといたじゃないか……吾輩は姪の浜、浦山の祭神、鶉《うず》の尾《お》権現《ごんげん》の御前《おんまえ》にかけて誓う。君はそんな浅薄な意味で、この事件に関係しているのじゃない。もっと重大深刻な意味で……」
「……でも……でも……それ以上に重大深刻な意味で関係が……」
「……出来ないと云うんだろう。ところが出来るから奇妙なんだ。クドイようだがモウ一度断っておく。吾々が住んでいる、この世界は現代の所謂《いわゆる》、唯物科学の原則ばかりで支配されているんじゃないんだよ。同時に唯心科学……即ち精神科学の原則によって何から何まで支配されている事を肝に銘じて記憶していないと、この事件の真相はわからないよ。……早い話が純客観式唯物科学の眼で見るとこの世界は長さと、幅と、高さの三つを掛け合わせた三次元の世界に過ぎないんだが、純主観式精神科学の感ずる世界は、その上に更に『認識』もしくは『時間』を掛け合わせた四次元もしくは五次元の世界が現在吾々の住んでいる世界なんだ。その高次元の精神科学の世界で行われている法則は、唯物世界の法則とは全然正反対と云ってもいい位違うのだ。その不可思議な法則の活躍状態は、既に今まで君がこの部屋で見たり聞いたりして来た話だけでも、十分に察しられるだろう。……その中からこの事件の解決の鍵を探し出せばいいのだ。……否……この事件の鍵は、もうトックの昔に、君のポケットに落ち込んでいる筈だがね。ツイ今しがた慥《たし》かにその鍵を君の手に渡した事を、吾輩はハッキリと記憶しているのだがね」
「……そ……それはドンナ鍵……」
「離魂病の話さ」
「離魂病……離魂病がどうしたんですか」
「ハハハハ。まだわからないと見えるね」
「……わ……わかりません」
「……いいかい……この事件で差当り一番不思議に思えるところは、君とソックリの人間がモウ一人居る事であろう。そのモウ一人の君自身のお蔭で、スッカリ事件がコグラカッてしまっている訳だろう。しかも、それは君の離魂病のせいだっていう事をツイ今しがた、説明して聞かせたばかりのところじゃないか」
「だって……だって……そんな不思議な……馬鹿馬鹿しい事が……」
「ハッハッハッ。まだ離魂病が信じられないと見えるね。まあまあ無理もないさ。誰でも自分の頭が一番、確実《たしか》だと信じているんだからね。その方が結局、無事でいいし、お蔭で話の筋道もステキに面白くなって来る訳だから、そう慌てて結論を付ける必要もないだろうよ。呉一郎を発狂さした犯人はあらゆる人間の中の一人か、又は呉一郎自身か、それとも又、絵巻物が独り手に弥勒《みろく》様のお像から脱け出して活躍したものか……というこの三つを前提にしてユックリと考えた方がいい。そうして冷静な気持で君の過去を思い出した方が早道だ」
「……しかし……そんな神秘的な……不思議な事実が……」
ここまで云いかけると私は、自分自身の考えに堪《た》えられなくなって言葉を切った。
「だから慌てるなと云うんだよ。今に神秘でも何でもなくなるから……」
「……でも……今っていつです」
「いつだか解らないが、きょうは駄目だよ。吾輩は君の記憶力を回復すべく、先刻《さっき》からの話の中《うち》に、かなり強烈な精神科学の実験を君に対して、かけ通しにして来たんだけ
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