。自分の心理を解剖されているような気がしたので……。
「こいつを具体的に説明するとこうであったろうと思う。すなわち……李太白が玄宗皇帝の淫蕩《いんとう》と、栄耀栄華《えいようえいが》に媚《こ》び諛《へつら》った詩を作って、御寵愛を蒙《こうむ》ったお蔭で、天下の大詩人となったのを見た呉青秀は、よろしい。それならば俺は一つその正反対の行き方でもって名を丹青《たんせい》、竹帛《ちくはく》に垂れてやろう。自分の筆力で前代未聞の怪画を描いて、天下後世を震駭《しんがい》させてくれようと思った……これがこうした若い、天才肌な芸術家にあり勝ちの、最も高潮した名誉慾だ。又、呉青秀自身の男ぶりと、天才に相応した名声に惚れ込んで、ゾッコン首《くび》っ丈《たけ》になっている新夫人から、身も心も捧げられた、新婚早々の幸福さに有頂天になった呉青秀は、僅か数箇月の間にあらゆる愛し方と、愛され方を味《あじわ》いつくしてしまった。この上はその美しい愛人を、極度に残忍な方法で虐待するかどうかしなければ、この上の感激は求められられられられないといった程度にまで高潮した慾求を、夜毎日毎《よごとひごと》に感じ初めて来た。これがやはり天才肌の青年……殊《こと》に頭の優れた芸術家なぞに在り勝ちの超自然的な愛慾、兼、性慾だ。……それから今一つ……嘆美の極はこれを破壊するにあり。そうしてその醜怪な内容をドン底までも曝露さして冷やかに観察するに在り……という芸術慾のドン詰まりと、この四ツの慾望が白熱的の焦点を作ってこの計画の中に集中されていた。しかもその強烈な慾求を呉青秀はやはり純忠純誠の慾求として錯覚していたものと考えられるのだが、そうした呉青秀の心理状態の裏面を、端的に解り易く説明しているものは、矢張《やは》りこの絵巻物の絵だ。腐敗して行く美人の姿だ」
 私の眼の前に又しても最前の死美人の幻覚が現われ出て来そうになった。思わず両手で眼をこすると、鼻の先の絵巻物に視線を落して、表装の中に光っている黄金《こがね》色の唐獅子の一匹を睨み付けた。出て来る事はならぬ……というように……。
「……その死美人の腐敗して行く姿を、次から次へと丹念に写して行くうちに呉青秀は、何ともいえない快感を受け初めたのだ。画像の初めから終りへかけて、次から次へと細かく冴えて行っているその筆致《ふでつき》を見てもわかる。人体という最高の自然美……色と形との、透きとおる程に洗練された純美な調和を表現している美人の剥《む》き身《み》が、少しずつ少しずつ明るみを失って、仄暗《ほのくら》く、気味わるく変化して、遂《つい》には浅ましく爛《ただ》れ破れて、見る見る乱脈な凄惨《むご》たらしい姿に陥って行く、その間《かん》に表現《あらわ》れて来る色と、形との無量無辺の変化と、推移は、殆ど形容に絶した驚異的な観物《みもの》であったろうと思われる。その間《かん》に千万無量に味《あじわ》われる『美の滅亡』の交響楽を眼の前に眺めつつ、静かに紙の上に写して行く心持は、とても一国の衰亡史を記録する歴史家の感想なぞとは比較にならなかったろうと思われる。呉青秀は彼《か》の忠義も、この名誉も、愛慾も、性慾も、その芸術慾も、何もかもを打ち込んだ無我夢中の気持の中に、この快感と美感とを、どこまでも細かく筆にかけつつ、飽くところを知らず惜しみ味わったに違いない。そうしてその残骸が、最早《もはや》この上には白骨になるよりほかに変化の仕様がないところまで腐ってしまったのを見ると、決然筆を擲《なげう》って起《た》った。今一度、この快美感を味いたい白熱的な願望に、全霊をわななかしつつさ迷い出た。しかも……呉青秀のこうした心理の裡面には、その永い間の禁慾生活によって鬱積、圧搾された性慾が、疼痛《うず》く程の強烈な刺戟を続けていたに違いないのだ。その刺戟が疲労し切った、冴え切った神経によって盛んに屈折分析され、変形、遊離させられつつ、辛辣、鋭敏を極めた変態的の興奮を、呉青秀の全身に渦巻かせていたに相違ないのだ。そうしてその捩《よ》じれ狂うた性慾の変態的習性と、その形容を絶した痛烈な記憶とを、その全身の細胞の一粒《ひとつぶ》一粒|毎《ごと》に、張り裂けるほど充実感銘させていた事と思う」
 寂《さ》び沈んだ、一種の凄味《すごみ》を帯びた正木博士の声は、ここで一寸《ちょっと》中絶した。
 私は眼の前に在る獅子の刺繍が、視力の疲労のためにボーッとなるのを、なおも飽かず飽かず見詰めていた。そのボーッとした色の中に、たった一つ浮出している草色の一つに何故ともなく心を惹《ひ》かれながら耳を傾けていた。
「……こうして忠君も、愛国も、名誉も、芸術も、夫婦愛も、何もかも超越してしまって、ただ極度に異常な変態性慾の刺戟だけで、生きて、さ迷うていた呉青秀は、一年振りに帰って来た
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