んで、それを一つの記録にして社会に公表すべく、吾輩の指図通りの手段を取るのをチャント吾輩の眼で見届けた上でなくちゃ、その実験をやる訳に行かないと云うのだ。……どうだ。出来るかい……その約束が……」
「……出来……ます……」
「よろしい……それじゃ話そう……イヤ。話が篦棒《べらぼう》に固苦しくなった。こっちへ来たまえ……」
 と云ううちに正木博士は、私の手をグングンと引っぱって、大|卓子《テーブル》の処へ連れて来て座らせた。自分も旧《もと》の肘掛回転椅子に私と差し向いに座ると、白い服のポケットからマッチを出して新しい葉巻に火をつけた。吸い残りの短いのは達磨《だるま》の灰落しの口へタタキ込んだ。
 私は窓の外が見えなくなったので、ホット重荷を卸したような気持ちになった。どうしても解けそうにない疑問の数々が、益々深刻に交錯して来るのを、頭の中心にハッキリと感じながら…………。

「イヤ。馬鹿に話が固苦しくなった」
 と今一度わざとらしく繰り返した正木博士は、今までよりもずっと砕けた態度になって机の上に両肱をついた。その上に顎を載せて、長い葉巻を横啣《よこくわ》えにしながら、ニヤニヤと私の顔をのぞき込んだ。
「ところでどうだい。君自身が何者かというような問題はとりあえず別にしておくとして、君は今朝《けさ》見たあの少女をどう思うね」
 私は質問の意味が解りかねて眼をパチパチさせた。
「どう思う……とは……」
「美しいとは思わなかったかね」
 不意打ちにこうした方角違いの質問を浴びせられた私は狼狽《ろうばい》せずにはおられなかった。頭の中を羽虫のように飛びめぐっていた大小無数の「|?《インタロゲーションマーク》」が一時に消えうせて、その代りに黒く潤《うる》んだ眼……小さな紅い唇……青い長い三日月眉……ポーッと薄毛に包まれた耳……なぞが交《かわ》るがわる眼の前に浮かんで来たと思うと、私の首すじのあたりがポカポカと暖かくなるのを感じた。それにつれて、今しがた気絶しかけた時に飲まされたウイスキーの酔いが、グングンと身体《からだ》中をめぐり初めたように思って、われ知らずハンカチで顔を拭いた。顔中から一面に湯気が湧き出すような気がして……。
 正木博士はニヤニヤしたまま顎でうなずいた。
「フーム……そうだろう……そうだろう。あの少女が美しいかどうかと訊《き》かれて平気で返事の出来る青年は、恋愛遊戯に疲れた不良連中か、又は八犬伝や水滸伝《すいこでん》に出て来る性的不能患者の後裔《こうえい》だからね……しかし君はあの少女を、それっきり何とも思わなかったかね」
 私は本当を云うと、この時の私の心持ちをここに記録したくない。……が併《しか》し、事実を偽ることは出来ない。私は正木博士からこう尋ねられたお蔭で、あの少女に対する私の気持ちが、今朝《けさ》初めて会った時以上に一歩も進み出ていないことを、この時初めて気が付いたのであった。ただ、その気味のわるいほどの初々《ういうい》しさと、眼も当てられぬイジラシイ美しさに打たれただけであった。どうかして正気に返してやりたい……この病院から救い出してやりたい……そうして思っている青年に会わしてやりたいと思い思いして来ただけであった。そうしてそれが果して彼女に対する私の「恋の表現」の「変形」であったかどうか……なぞいう事を考えてみる暇《いとま》がなかったのであった。否……それ以上に深く自分の心を解剖するのを彼女に対する冒涜とさえ考えて、心の奥の奥で警戒していた……その図星を正木博士に指されたような気がしたので、私は何のタワイもなく赤面させられてしまったのであった。石のように固くなって、切口上で返事をしたのであった。
「え……可哀想とは……思いました」
 正木博士はこう聞くとサモ満足気に幾度《いくたび》も幾度もうなずいた。その態度を見ると正木博士はこの時に私があの少女を恋しているものと思い込んでしまったらしかったが、それを打ち消すだけの心の余裕も私は持たなかった。何とかして誤解をさせぬようにとヤキモキ考えているうちに正木博士は、なおも悠々と念入りに点頭《うなず》き直してしまった。
「そうだろうともそうだろうとも。美しいと思ったのは、すなわち恋した事だからね。そうでないという奴は似非《えせ》道徳屋……」
「……ソ……そんな乱暴な……セ……先生……誤解です……」
 と私は周章《あわ》てて半布《ハンケチ》を持った手をあげつつ叫んだ。
「……異性の美しさを感ずる心と、恋と、愛と、情慾とはみんな別物です。そんなのをゴッチャにした恋は錯覚の恋です……異性に対する冒涜です……精神科学者にも似合わない乱暴な云い草です……無茶苦茶です。それは……」
 というような反駁の言葉を一時に頭の中で閃《ひら》めかしながら……。しかし正木博士はビクとも
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