からね。見給え、肉よりも焼け難《にく》いという西洋紙の原稿ばかり、本箱に四杯近くもあったのが、どうだい。たったこれんばかりの白い灰になってしまっているだろう。これで吾輩が又|煙《けむ》になれば、折角の大学理が、又、もとの空中に還元されて終《しま》うわけだ。ハッハッハッ。……吾輩は、君と若林が、あの階段を上って来る音を耳にすると同時に、ウイスキーの瓶と一緒にこの中に逃げ込んで、この灰の上にこうして新聞紙を敷いて楽々と胡座《あぐら》を掻《か》いたまま、いつ何時でも煙になる覚悟で、葉巻を吹かし吹かし耳を澄ましていた訳だ。
 ……ところが流石《さすが》は彼奴《きゃつ》だ。天下の名法医学者だ。吾輩の姿が見えなくても平気の平左でいるばかりか、すぐにその機会を利用して君を錯覚に陥れ初めた。……彼奴のアタマは聖徳太子と同様二重三重に働くんだからね。だから吾輩や斎藤先生の事を色々と君に話して行く片手間に、この遺言書の内容を大急ぎで検査してみると、少々都合のわるい処もあるが、結論まで書いてないのだからまず安全である。のみならず、こいつを君に読ませれば、自分で説明するよりも遥かに都合よく、君自身を呉一郎と思い込ませ得るという見込みが付いたので、わざと君に押し付けておいて、君が夢中になって読んでいるうちにコッソリ姿を消してしまったのだ。そうしてこれに対して吾輩がドンナ処置を執《と》るかを試験しているらしい様子だ。
 ……そこで吾輩いよいよ面白くなったね。……よし……その儀ならばこっちも一つその計略の裏を行って、あべこべに彼奴の挑戦に逆襲してやれと思って、暖炉《ストーブ》の中からソーッとここへ出て来て、この椅子に腰を卸しながら、君がその遺言書を読み終るのを待っていた訳なんだが……。ハッハッ……どうだい。今君と吾輩とは天下の名法医学者、若林鏡太郎氏の計劃の下に対決しているんだよ。そうして君がどこの何という名前の青年であるか……この事件と如何なる因果関係によって結び付けられて、現在その椅子に座らせられているのかという事は、まだ学理上にも実際上にも明白に決定されていないのだよ。
 ……だから彼奴、若林の予想通りに、君がその自我忘失症から、姪の浜の一青年呉一郎として覚醒して、吾輩をその事件の裏面に活躍している怪魔人……血も涙もない極悪非道の精神科学の手品使いとして指摘すれば、この対決は吾輩の負けになる。しかし、これに反して、君がドウシテモ呉一郎としての過去の記憶を思い出さなければ、早い話が吾輩の勝になる……君は『自我忘失症』と名づくる一種の自家意識障害を起して、九大の精神科に収容されている、第三者の立場から若林の手にかかって突然にこの事件に捲き込まれて来た無名の一青年という事実が公表され得る事になって、若林の計劃がオジャンになるという、その際どい土俵際に立っているんだよ君は……。ドウダイ面白いだろう。古今無双の名法医学者と、空前絶後の精神科学者の、痛快深刻を極めた智慧比べだ。しかも、その勝負を決すべき呉一郎が、君自身だかどうだかは、今も云う通りまだ決定しないでいる。ハッケヨイヤ残った残ったというところだね。ハッハッハッ……」
 正木博士の高笑いは、室《へや》の中の色々なものにケタタマシク反響しつつ、私の耳に飛び込んで来た。そうして二人の博士の云う事の、どちらが本当か嘘か解らないままボンヤリとなっている私の頭の中を、メチャメチャに引っかき廻すとそのまま、どこかへシインと消え失せて行った。

 しかし正木博士は私のそうした気持ちに頓着なく、又も片眼をシッカリとつぶって、さも美味《うま》そうに葉巻の煙を吸い込んだ。それから廻転椅子の肘掛けに両手を突張って、ソロソロと立ち上りかけた。
「……や……ドッコイショ……と……そこでいよいよ本勝負に取りかからなければ、ならないのだ。まず是非とも吾輩の手で君の過去の記憶を回復さして、君が誰であるかを君自身に確かめさせなくちゃ、若林の手前、卑怯に当るからね。……とりあえずこっちに来てみたまえ。今度は吾輩自身が、君の過去を思い出させる第一回の実験をやってみるんだから……」
 私はもう半分夢遊病にかかっている気持ちでフワフワと椅子から離れた。どこからか若林博士の青白い瞳が覗いているような気味わるさの中を、正木博士に導かれるままに南側の窓に近づいた……が……正木博士の白い診察服の肩ごしに窓の外を一眼見ると、私はハッとして立ち止まった。
 眼の下に狂人解放治療場の全景が展開されているのであった。……そうしてその一隅に紛《まぎ》れもない呉一郎が突立っているのであった。……老人の畠打《はたう》ちを見守りながら、背中をこっちに向けている……髪毛《かみのけ》を蓬々《ぼうぼう》とさした……色の白い……頬ぺたの赤い……黒い着物をダラシなく纏うた青年の
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