時を見澄まして、コッソリとあの娘に引き会わせて、色と、慾と、理詰めの三方から、君自身に君自身を無理にも呉一郎と認めさせよう。そうして今も云ったように、吾輩を君の不倶戴天《ふぐたいてん》の仇敵《かたき》と思い込ませて、その事実を公式に言明させよう……彼の思い通りに引き歪《ゆが》めた事件の真相を社会に曝露させてやろう。……のみならず、その君の言明を、自分の畢生《ひっせい》の事業としている『精神科学的犯罪とその証跡』の第一例として掲げようと巧《たく》らんでいるスジミチが手に取る如くわかって来たのだ。
 ……そこで吾輩も考えた。……よろしい。そっちがそんな考えなら、こっちにも了簡《りょうけん》がある。もともと若林の精神科学的犯罪の研究は、吾輩独創の心理遺伝の学理原則を土台にして組み立てられているんだから、まぜっ返しをしようと思えば訳はない。ここで思い切って吾輩の精神科学の研究発表の原稿を全部焼き棄ててしまって、あとにその内容の概略を書いたヒヤカシ半分の遺言書を残しておけば、彼奴、若林は嫌でも応でもその著述の中に、この遺言書を組み込まなければ研究発表の筋が立たなくなる訳だ。しかし、果して彼奴《きゃつ》が吾輩の遺言書を公表し得るかどうか……公表するとすれば、どんな風に手品を使って公表するかは、ずいぶん面白い見物だぞ……事に依ると吾輩の遺言書は恐らく空前絶後のタチのわるい置き土産になるかも知れないぞ……。
 ……と……こう考えると吾輩、急に嬉しくなったね。大急ぎでこの室《へや》へ来て書類をスッカリ焼き棄てて、この遺言書を書き初めたんだが、そのうちに夜が明けてみると、君が覚醒しかけたというので、兼ねてから待ちかねて準備していた若林が時を移さず馳けつけて、早速|彼《か》の美少女に引き合わせた。……が……こいつはまんまと首尾よく失敗した。尤も先方は君を恋しい恋しい兄さんと認めてくれたので、まず半分は成功した訳だが、御本尊の君自身が、あの美少女にズドンと肘鉄砲《ひじでっぽう》を喰わせた……自分の従妹《いとこ》とも許嫁《いいなずけ》とも、何とも認めなかったので、今度は手段をかえて、君をこの室に連れて来る様子だ。
 ……ところで、実を云うとこの時には吾輩も聊《いささ》か狼狽《ろうばい》したね。恐るべきは彼奴、若林鏡太郎だ。彼奴は吾輩のこうした心事を、もう疾《と》っくに見抜いていたんだ。彼奴は吾輩が遅かれ早かれこの危険千万な放れ業式の解放治療の実験を切り上げて、その内容を学界に発表すると同時に、行衛を晦《くら》ますであろう事を、ずっと前から察していたんだね。しかも、それと同時に、この姪《めい》の浜《はま》の花嫁殺し事件も、吾輩一人の実験材料に使い棄てて、あとから誰が見ても犯罪事件と見えないようにして、学界に報告するであろう事までもチャンと看破していたんだね。そこで彼奴は全力を挙げて電光石火式に事を運んだ。そうして吾輩がまだ行衛を晦《くら》まさないうちに吾輩を押え付けてギャフンと参らせようと、巧《たく》らんだ訳だ。
 ……彼奴は吾輩が昨夜からここに居据《いず》わりで居る事を、今朝《けさ》本館の玄関を這入ると同時に見貫《みぬ》いていたに違いない。そうして何等かの策略で吾輩を凹《へこ》ませるために、君をここへ連れて来るんだな……と気が付いたから、ドッコイその手は桑名《くわな》の何とかだ。一つ驚かしてやれと思って、その遺言書や、焼き残りの書類をそこに置きっ放しにしたまま、ウイスキーの瓶と一緒に姿を消してしまったのだ。無論窓から飛び出したのでもなければ、向うの扉から抜け出した訳でもない。一歩もこの室から出ないまま誰にも気付かれないように消え失せた……というと何だか又精神科学応用の手品じみて来るが、そんな事じゃない。種というのはこの大|暖炉《ストーブ》だ。
 この大暖炉は、万一この実験が失敗するか、又は吾輩の研究の内容を他人に盗まれそうになった時に、そんな著述の原稿を全部、この中で焼き棄ててくれよう。事に依ったら吾輩自身もこの大暖炉を利用して天下を煙《けむ》に巻きながら、ヒュードロドロドロと行衛を晦ましてくれようと思って、最初から瓦斯《ガス》と電気併用の自動点火式に設計したものだが……見給え……この鉄の蓋を取ると、内部《なか》はこんなに広々して、底一面の電熱装置の間から瓦斯が噴き出すようになっている。何の事はないブンゼンラムプの大きなヤツを二百ばかり併列した形だ。この上に生きた物でも戴せて、瓦斯のコックを開いて電気のスイッチを捻《ね》じると、取りあえず瓦斯が飛び出して窒息させてしまう。そのうちに電熱器が熱して来て、ドカンと瓦斯に点火したら一時間経たぬうちに骨までボロボロになって終《しま》うだろう。その上に石でも瓦でも積み重ねておくと全部白熱して強烈な輻射熱を出すのだ
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