た正木博士は又も呉一郎の手を執《と》りながら、葉巻の煙を一服ユッタリと吐き出した。
「イヤ。もういいもういい。無理に君のお父さんの名前を思い出さなくともいいよ。どちらを先に思い出しても、エライ不公平なことになるわけだからね。ハハハハハハ」
今まで異様な緊張味に囚《とら》われていた人々が一時に笑い出した。やっとの事で、もとの表情を回復していた若林博士も、変に泣きそうな、剛《こわ》ばった笑い方をした。
その笑い顔の一つ一つを、如何にも注意深い眼付きで見まわしていた呉一郎は、やがて何やら失望したように、溜め息をしたまま伏し目になると、涙をハラハラと落した。その涙の珠《たま》は、手錠の上から、汚れた床の上に落ち散って行った。
その手を取ったまま正木博士は、無雑作に人々の顔を見まわした。
「とにかくこの患者は私がお預りしたいと思いますが如何でしょうか。この患者の頭の中には、事件の真相に関する何等かの記憶がキット残っていると思います。只今御聞きの通り、誰の顔でも、父の顔に見えるという事は、或《あるい》はこの事件の裏面の真相を暗示している、或る重要な心理のあらわれかも知れませんからね……出来れば私の力で、この少年の頭を回復させて、事件の真相に関する記憶を取出してみたいと思うのですが、如何でしょうか……」
【字幕[#「字幕」は太字]】 解放治療場に呉一郎が現われた最初の日(大正十五年七月七日撮影)
【映画[#「映画」は太字]】 解放治療場のまん中に立った五六本の桐の木の真青な葉が、真夏の光りにヒラヒラと輝いている。
その東側の入口から八名の狂人が行列を立てて順々に這入って来る。中には不思議そうに、そこいらを見まわしている者もあるが、やがてめいめいに取りどり様々の狂態を初める。
その一番最後に呉一郎が這入って来る。
如何にも憂鬱な淋しい顔で、暫くの間呆然と、四方の煉瓦塀や、足元の砂を見まわしていたが、そのうちにフト自分の足の下の砂の中から何やら発見したらしく、急に眼をキラキラと光らして拾い上げると、両手の間に挟んでクルクルと揉《も》んでから、眩《まぶ》しい太陽に透かしてみた。
それは青い、美しいラムネの玉であった。
呉一郎は真正面《まとも》に太陽に向けた顔をニッコリとさせながら、その玉を黒い兵児帯《へこおび》の中にクルクルと捲き込んだが、大急ぎで裾をからげて前に屈《かが》みながら、両手でザクザクと焼けた砂を掘返し初めた。
最前から入口の処に突立って、その様子を見ていた正木博士は、小使に命じて鍬《くわ》一|挺《ちょう》持って来さして呉一郎に与えた。
呉一郎はさも嬉しそうにお辞儀しいしい鍬を受け取って、前よりも数倍の熱心さでギラギラ光る砂を掘り返し初めた。それにつれて濡れた砂が日光に曝《さら》されると片端《かたっぱし》から白く乾いて行った。
その態度を熱心に見守っていた、正木博士はやがてニヤリと笑ってうなずきつつ、サッサと入口の方へ立ち去った。
【字幕[#「字幕」は太字]】 それから約二個月後の解放治療場に於ける呉一郎(同年九月十日撮影)
【映画[#「映画」は太字]】 解放治療場中央の桐の葉にチョイチョイ枯れた処が見える。その周囲の場内の平地の処々に真黒く、墓穴のように砂を掘り返したところが、重なり合って散在している。
その穴と穴の間の砂の平地の一角に突立った呉一郎は、鍬を杖にしつつ腰を伸ばして、苦しそうにホッと一息した。その顔は真黒く秋日に焦《や》けている上に、連日の労働に疲れ切っているらしく、見違えるほど窶《やつ》れてしまって、眼ばかりがギョロギョロと光っている。流るる汗は止め度もなく、喘《あえ》ぐ呼吸は火焔のよう……殊に、その手に杖ついている鍬の刃先《はさき》が、この数十日の砂掘り作業の如何に熱狂的に猛烈であったかを物語るべく、波形に薄く磨《す》り減って、銀のようにギラギラと輝いている物凄さ……生きながらの焦熱地獄に堕《お》ちた、亡者の姿とはこの事であろう。
その呉一郎はやがて又、何者かに追いかけられるように、真黒な腕で鍬を取り直した。新しい石英質の砂の平地に、ザックとばかり打ち込んで別の穴を掘り初めたが、そのうちに大きな魚の脊椎骨を一個《ひとつ》掘り出すと、又急に元気付いて、前に倍した勢いで鍬を揮《ふる》い続けるのであった。
舞踏狂の女学生が、呉一郎の背後に在る大きな穴の一つに落ち込んで、両足を空中に振りまわしながら悲鳴をあげた。ほかの患者たちが手を拍《う》って喝采した。
しかし呉一郎は、ふり向きもせずに、なおも一心不乱に掘って掘って掘り続けて行くと、やがて今度は何か眼に見えぬものを掘り出したらしく、両手の指でしきりに捻《ひ》ねくっていたが、すぐに鍬を取り直して、眼を火のように光らし、白い歯を砕ける
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