座いませぬ。……承《うけたまわ》りますればその絵巻物は、一郎殿の御乱心の後《のち》、行衛《ゆくえ》が知れませぬとの事で、これも亦《また》、不思議の一つで御座います。村の者の中には、一郎殿の乱心の前と後とに、絵巻物が蛇のように波を打って虚空を渡るのを見た……なぞと申している者があるそうで御座いますが如何なもので御座いましょうか。これと申すも私の不念より起りました事で、亡くなられましたオモヨ殿と、狂気された一郎殿の御痛わしさ。老い先の短かい生命《いのち》に代られるものならばと思うて、涙にかき暮れまするばかり……云々。
◆第四参考[#「第四参考」は太字] 呉八代子の談話概要
▼聴取時刻[#「聴取時刻」は太字] 前同日午後五時頃
▼聴取場所[#「聴取場所」は太字] 同人宅奥座敷に於て
▼同席者[#「同席者」は太字] 呉八代子、余(W氏)――以上二人――
――ああ先生……ようお出でで下さいました。どのように待っておりました事か……イエイエ。私の傷は構いませぬ。生命《いのち》も何も要りませぬ。どうぞどうぞお願いで御座いますからこの絵巻物を(……と固く秘めたる懐中より取り出して渡しつつ)お寺から盗み出して、あの石切場で待ち伏せして一郎に渡して、この家中の者を取り殺そうとたくらんだ奴を、ゼヒゼヒ探し出して下さいませ。そうして其奴《そやつ》が見付かりましたならば、タッタ一言でよろしう御座いますから、何の怨《うら》みでこのようなムゴイ事をしたかと(涕泣《すすりなき》)タッタ一言でよろしう御座いますからキットお尋ね下さいませ(涕泣)……一郎が正気でおりますうちにその人間の事を尋ね出し得ませなんだのが残念で残念で……わかったら骨を噛み砕いても飽き足らぬと(涕泣)……イエイエ。直方《のうがた》を引き上げる時には、そんな物は御座いませなんだ。一郎の身のまわりは、私が残らず調べております。……警察の奴が何が解りましょう。一郎をあんな非道《ひど》い眼に会わせたりして……私は尋ねられても返事もしてやりませなんだ。……私はもう諦らめました。一郎が正気になろうがなるまいが、娘が生き返ろうがかえるまいが、私の生命がどうなろうが知りません。ただ妹の千世と、一郎と、娘の讐敵《かたき》は同じ奴……この絵巻物の事情《わけ》を知りながら、あの一郎に見せた奴が……(昂奮、錯乱して問答を継続し得ず。爾後《ややのち》、約一週間の後《のち》に到り、漸次平静に帰すると共に、放神状態になり行く傾向を認められつつあり)
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◆備考[#「備考」は太字] (イ)事件発生当日午前十時半、出入を禁じありたる呉家の土蔵《くら》(三番倉と呼ばれおるもの)の内部を検するに、階下の板の間の入口に敷かれたる古新聞の上に、呉一郎の朴歯《ほおば》の下駄《げた》の跡と、モヨ子の外出|穿《ば》きの赤きコルク草履《ぞうり》が正しく並びおり、その傍《かたわら》より蝋燭《ろうそく》の滴下《したたり》起り、急なる階段の上まで点々として連《つら》なれり。
階上の状況、及、被害者の屍体には格闘、抵抗、苦悶等の形跡を認めず。
屍体《したい》頸部には絞縛《こうばく》したる褶痕《しゅうこん》と鬱血《うっけつ》、その他の索溝《さっこう》相交《あいまじ》って纏繞《てんじょう》せり、然《しか》れども気管喉頭部、及、頸動脈等も外部より損傷を認むる能《あた》わず。尚《なお》脂粉の香《におい》ある新しき西洋手拭《タオル》一本、屍体の前に置かれたる机の下に落在《らくざい》せるが、右は加害者の所持品にして、右兇行に使用したるものと認めらる。
机上中央には鼻紙と覚《おぼ》しく、婦人の体臭ある四ツ折の半紙十数枚を重ねて拡げあり。その向って左端に同家の仏具の一たる真鍮の燭台を置き、百|匁《め》蝋燭一本を立てて点火したる跡あるが、後日検査の結果、点火後約二時間四十分を経て、消されたるものと推定されたり。
尚《なお》、この他に新しき三本の百匁蝋燭が燐寸《マッチ》の箱と共に机の下に置きありたるが、以上四本の蝋燭の上部、及、中央部附近に印せられおる数多の指紋は、悉《ことごと》く、被害者モヨ子の左右手各指の指紋のみにして、加害者呉一郎のものは一個も存在せず。且《か》つ、燐寸《マッチ》の箱よりも被害者の指紋のみが検出されたる事実より見れば、前記四本の蝋燭は、被害者自身が持ち来りたるものにして、手ずから燐寸《マッチ》を擦《す》りてその中の一本に点火し、机の左端に置きたる事疑う余地なし。(その他八代子の足跡等に関する記述略)
(ロ)同夜九時、被害者の屍体、九州帝国大学医学部法医学教室に到着、直ちに余(W氏)執刀、舟木医学士立会の下に解剖、同十一時終了の結果、死因は頸部の圧迫、絞扼死《こうやくし》と判明す。且つ、被害者が何等かの
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