命時間が、二時――三時の間とすれば、呉一郎は第二次の就寝後三十分乃至一時間の後《のち》に、かかる夢中遊行状態の起り得べき、最深度の熟睡に陥りたるものなる事を察し得べし。而して、第二回の払暁時《ふつぎょうじ》の覚醒は、平生の覚醒時に於ける習慣的の潜在意識の発露と見るを得べく、その後の睡眠に於て、呉一郎は初めて夢中遊行の余波、もしくは夢中遊行中の嚥下物《えんかぶつ》に依って刺戟せられたる悪夢より離脱し、真の熟睡、休養に入りたる事を、その発汗現象によりても察知するを得べし。
【九】 夢中遊行に関する覚醒後の自覚、及び二重人格に関する考察
次に呉一郎が覚醒後、警察に於て、母殺しの嫌疑の下に訊問を受けし際、茫然自失しながらも「そんなら、自分が殺しておいて忘れているのじゃないかしら」というが如き、極めて軽微なる疑問が動きおりし事を告白せるは、一見、同人が自己の夢中遊行の幾分を記憶に止《とど》めおれる重大なる証左なるが如く思惟さるべし。すなわち第四項に略説せし通り、同人の当夜に於ける夢中遊行の事実は、同人の有意識的の記憶には存在せざる筈なれども、脳髄以外の細胞が作りし無意識的記憶の中《うち》の或るもの……たとえば当時の甚しき疲労感等が、警部の訊問の暗示力によって意識裡に浮み出でしものに非《あら》ざるなきやも疑い得べし。然れども、これを他の一面より見る時は、気質の純真と、良心の澄明とが反映したる、極めて明敏なる頭脳の所有者にして且つ、小説類の愛好者たる呉一郎が、かかる局面に立ちたる結果起したる、この種の頭脳特有の錯覚に非ざるなきやを保し難し。随《したが》って、這般《しゃはん》の疑問は、呉一郎の夢中遊行の存在を的確に立証し得るものに非ず。唯、一箇の補遺的参考としてここに掲ぐるを得るのみ。
尚《なお》、以上述ぶるところに依って、古来、夢中遊行病者が一種の二重人格の所有者なるが如く思惟せられおる事が、真に近き理由をも理解するを得べし。すなわち、祖先代々より遺伝し来りたる無量の記憶と、その血統中に包含されたる各人種、各家系、各個性等の無数の性能の統一体たる一個の人間の性格のうち、その一部が覚醒中に分離してあらわれたるものが所謂二重人格にして、同じく睡眠中に発露されたるものが夢中遊行症なり。而《しか》してかかる夢遊病者の素質が、遺伝性を帯びおるものなるは無論なるを以て、夢遊病者が夢中遊行中に行いし犯罪に対する責任は、夢遊病者本人が負うべき場合甚だ些《すく》なく、これを遺伝せしめたる祖先及びその時代の社会等が、負うべき場合多き事を、この事件に対する法律的考察の参考として附記しおくべし。
【十】 呉家の血統に関する謎語
劈頭《へきとう》に掲げし四項の談話中、右に摘出したる以外にも亦《また》、呉一郎の心理に、かかる夢中遊行を発作し得べき遺伝的の或るもの[#「或るもの」に傍点]が存在せる事を暗示せる個所|尠《すくな》からざるが如し。即ち左の如し。
[#ここから2字下げ]
=呉一郎の談話中= 同人母千世子は、女性にしては珍らしき明晰なる頭脳を有し、且つ、気強き性格の持ち主なる事が説明されおり、且つ、迷信家に非《あら》ざる旨を弁護しあるにも拘らず、母子二人の宿命、もしくは運命に関しては、極めて平凡、且つ愚昧に属する迷信を極度に固執しおれる事実より推して、同女の心理に何等か不可抗的の憂悶不安の、不断に存在せるに非ざるなきやを疑い得る事。
=同= 狸穴の先生[#「狸穴の先生」に傍点]と呼ばるる占断者《うらないしゃ》の言に「お前達は、何者かに咀《のろ》われている」とあるは、同占断者が、同女との対話中に、同女の言葉の中に含まれたる或る事実を推測して、斯《か》く云いたるに非ずやと疑わるる事。
=八代子の談話中= 直方《のうがた》署の留置場に於て、初めて呉一郎に面会したる際「お前は何か夢を見ていやしなかったか」と尋ねしは「嘗《かつ》て夢遊病の事を耳にせしためなり」云々と弁明せるが、一婦人、特に農家の一主婦としての教養以外に、何等の高等なる学識を有せざるべき筈の八代子が、此《かく》の如き非常事件に際し、かかる超常識的に高等なる、精神科学的現象の存在の、可能なる事を考え得るさえも、不可思議というべきに、更にこれを実地に当て嵌《は》めて、直ちに事件の裡面の真相を穿《うが》たんと試みたるが如きは、真に驚くべき事実にして、仮令《たとい》同婦人が如何に慧敏《けいびん》、且つ果敢なる判断力を有するものと見るも、尚且つ、不自然の感を免れず。但し、同婦人が常に、何等かの痛切なる事情に迫られて、かかる問題を念頭にかけおり、此《かく》の如き事実に関する風説又は説明等に就て、鋭き注意を傾注しおりたるものとすれば、かかる際、かかる質問を発するは強《あなが》ちに不自然と云い得べから
前へ
次へ
全235ページ中134ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング