、普通の自殺者の遺書等の中に発見さるる夢の如き「自己歎美」又は、甘美なる涙を含む「自己陶酔」の心理の裏面にはこの種の変態心理の多少を認め得ざる事なく、殊に失恋自殺者の心理にして、この種の変態的欲求に最後の、且つ、唯一最高の満足を求めおらざるもの一人も無しと断言するも敢《あえ》て過言に非《あら》ず。その他、この種の心理の発露の特異なるものに到っては、自己の名前、肖像等の抹殺破棄……鏡面の理由なき破壊……模擬戦、又は劇等に於ける傷者、死者等の役廻り志願……各種の芸術作品中、自己に擬《ぎ》せる人物に対する作者の残忍なる描写……等の軽度なるものより、遺書なき自殺……他人もしくは公衆の面前に於ける自殺……自己及び環境を美化粉飾したる自殺……同情の情死……同性同胞の情死……自殺|倶楽部《クラブ》の存在……等、その欲求の変幻、その発露の怪奇、殆ど端倪《たんげい》すべからざるものあり。その他、人類生活の日常到るところの起臥《きが》談笑の間に於ても、本来自然の自己愛着心と不即不離の関係を保ちつつ、知不知、不言不語の裡《うち》にこの種の変態心理が流露反映しつつあるものなるを以て一々枚挙に遑《いとま》あらず、故に、ここには唯、斯の如き極端なる変態心理がその研究価値の頗《すこぶ》る高度、非常なるものあるにも拘らず、その発露する事例は決して稀有珍奇なるものに非ず、他の中間的なる変態性慾よりも却って普遍的なる傾向を有しおるものにして、相当の自省力を有する人士は常に、自己の心理生活の到るところにこの種の変態心理を発見し得べき事を証するに止むべし。
 以上述ぶるところに依って、この事件の示す特徴を研究考察するに、呉一郎は、その夢中遊行の第一段たる絞首行為の前後に於て、その被害者の風貌が自己に酷似せる事を認めたるべきは推測に難《かた》からざるべし。而《しか》して同時にその夢中遊行の本源たる深刻痛切なる性慾の衝動が、その夢遊行動に依て解除さるるを得ざるがために、飽く事なき飜弄を続行中にも、幾回となく、その屍体の風貌の自己に彷彿《ほうふつ》たるものあるを認めしに相違なかるべく、その結果、おのずから自己虐殺の錯覚、幻覚に誘致され、屍体を自己に擬《ぎ》し、数回に亘りてこれを絞首したるものと認むるは、決して不自然なる推測に非《あら》ざるべし。かくして最後に、自己の屍体幻視の夢遊に移り、自己に擬したる被害者の屍体を階上の手摺《てすり》より吊り下し、相対《あいたい》する階段附近よりこれを正視して歓興したるものと察するを得《う》べく、此《かく》の如く観察し来る時は、被害者が二重三重に絞首されし後《のち》、縊死に擬せられたる等の、本事件の最重要なる各種の特徴は極めて自然に、且つ明白に説明され得るを見るべし。本事件の検案調査が、かかる諸点に留意されず、尋常一般の犯罪と同一視されたる結果、この方面に関する指紋、足跡等の事跡が大略看過されたる傾向あり。ために、かかる珍奇なる夢中遊行特有の怪奇なる行動の詳細に亘りて推測する能《あた》わざるものあるは復《また》やむを得ざる遺憾事と言うべし。
 因《ちな》みに、呉一郎の夢中遊行の発作をここまで支持し来りし性慾衝動の最高潮状態は、この自己の屍体幻視を終極的として、解除されたるものと推測し得べき理由あり。爾後《じご》の呉一郎の行動は、この夢中遊行症の余波ともいうべき夢中遊行にして、筆者の所謂《いわゆる》、蹌踉状態[#「蹌踉状態」に傍点]に陥りたるものと認むるを得べし。然れども、その蹌踉《そうろう》状態の下に行われたる夢遊行動中にも亦《また》、本事件の表面上に現われたる、重要なる疑問的特徴を作りしものあるを推測され得るを以て、特に項を改めて記述すべし。

  【七】 呉一郎の悪夢、口臭、その他が表わす夢中遊行症の特徴

 呉一郎が悪夢を見たりという事実と、覚醒後の頭痛、眩暈《げんうん》、悪寒、口臭、嘔気《おうき》等を感じたる事実等を綜合して、麻酔剤の使用を疑われたる事は一面の理由あるものの如し。然れども、これを精神科学的の見地より観察する時は、これ亦《また》、現代の科学知識の発達程度に照して、誠に止むを得ざるに出でたる錯誤と評するを得べし。すなわち、畢竟《ひっきょう》するところ右は、夢、及《および》、夢中遊行なるものの真相の学理的に闡明《せんめい》され、且つ、常識的に理解されおる程度が、甚だ浅薄低級なる結果にして、下記二段の説明を以てこれを判断する時は、右の諸現象が麻酔剤の使用に依って起りしものに非《あら》ず、却って夢遊病の併発症状ともいうべき諸特徴を最も顕著に示しおる事を認め得べし。
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 (イ)口臭[#「口臭」に傍点]、その他と轆轤首の怪談[#「その他と轆轤首の怪談」に傍点] 呉一郎が覚醒後に感じたりという頭痛、嘔気、疲労
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