ろへ、警察から人が来られたので、初めて知ってビックリした」と申して参りましたが、その手紙の様子で見ますと妹が色々と身の上話をお聞かせしたその奥様は、もう亡くなっておられるようで御座います。妹もせめて今少し生きておりましたならば、よい目に逢ったかも知れませんが……何の怨《うらみ》か存じませぬが、このような酷《ひど》い事を致しました者が捕えられましたならば、八《や》ツ裂《ざき》にしてやりたい位に思います(落涙)。
――私の家は只今のところでは遠い親類しか居りませぬので、只今では親身の者と申しましては娘と私と二人切りで御座います。一郎はこれから私の子供分に致しまして、私の力一パイ立派な人間に育て上げて行きたいと存じますが……父無子《ててなしご》と位牌子《いはいご》をたよりに、暮すことを思いますと……(涕泣《すすりなき》)。
◆第三参考[#「第三参考」は太字] 松村マツ子女史(福岡市外|水茶屋《みずぢゃや》、翠糸女塾《すいしじょじゅく》主)談
▼同年同月四日[#「同年同月四日」は太字] 玄洋新報社朝刊切抜抜萃再録
――その刺繍の上手なお嬢さんが、この翠糸女塾に通っていたのは、もう二昔前の日露戦争頃の事で、私が三十代の時ですから、詳しい事は判りませんねえ。エエ、通っていた事はたしかですよ。その頃が十七か八位でしたろうかねえ。ちょっと眼立たぬ風をしておられましたが、小柄なキリリとした別嬪《べっぴん》さんで、名前は虹野《にじの》ミギワさんと云いました。イイエ、間違いはありません。珍しい名前ですからよく憶えております。又今お話しになりました「縫い潰し」なぞいう刺繍のできる人は虹野さんより外に見た事がありません。
――虹野さんの作品は私の処には一つも残っておりません。その頃はまだ、そんな贅沢なものの値打ちが判りませんでしたので手間損だったのです。たった一度、二月《ふたつき》ばかりかかってこしらえた五寸四方ばかりの小袱紗《こぶくさ》を、私の塾の展覧会に出した事がありましたが二十円という値段付けだったので売れ残ってしまいました。今あったら大変なものでしょう。私も習っておけば良かったと思います。虹野さんはそんな風に技術《しごと》が良かった上に、小野|鵞堂《がどう》さんの字をお手本よりもズッと綺麗に書きましたので、私の弟子の刺繍に使う字をよく書いてもらいました。絵も却々《なかなか》上手で、私の処にある下絵の中でも良いのは大抵写して行かれました。けれどもかれこれ半年余りかよって来たと思うとパッタリ見えなくなりました。エ……その時姙娠の模様は見えなかったかって……いいえ、小柄な方でしたから直ぐに判る筈ですが……その色男が虹野さんを棄てて逃げたのですって? ヘエー左様ですか。ヘエー……。
――その頃住んでいた家ですか。サア、それは存じておればですが……その頃いた生徒はみんなもう四十近くのお婆さんになっているんですからネエ。ヘヘヘヘヘ。マア、その男が虹野さんを殺したらしいんですって。……おお怖《こ》わ! あんな別嬪さんを、まあ惜《おし》いこと……そういえば思い当る事があります。誰にも仰言《おっしゃ》っては困りますがね。虹野さんは大変な男喰いで、大学生の中でも失恋させられた人が二三人あったそうですよ。尤《もっと》もこれは噂だけですがね。その頃の虹野さんの家《うち》もどこか判らず、東から来たり西から来たり、帰りがけもその通りで、誰も本当の家《うち》を知っているものはありませんでしたよ。私の塾には品行の悪い人は一切入れませんでしたが、そんな風でどこが悪いといって取り止めた事は一つもなかった上に、本人がシッカリした風で仕事が上手だったもんですからね。いいえ写真なぞもありません。けれどもその頃の怨みにしちゃ、チット古過ぎますわねえ。ホホ……。
――ヘエッ、それがあの有名な迷宮事件の呉さんですって?……マアどうしましょう。どうして虹野さんが、呉さんという事が判ったんですか。ヘエ、東京の袋物屋のお神さんに身の上を話していた。只、男の名前だけが判らない……ヘエ、そうですか。どうぞこの事は内証にして下さい。云々。
[#ここから2字下げ]
▲附記 呉一郎の第一回の発作に関する事件記録の要点は前掲三項の断片に残らず包含されおるを以て詳細は省略す。但、第三参考「松村女史の断片」は、余の所謂《いわゆる》「呉一郎の第一回発作」の参考としては全然不必要の範囲に属するも、この記録を作製したるW氏の主張を尊重する意味に於て、且又《かつまた》、該《がい》事件に関する司法当局の探査方針、及び当時の各新聞の記事が暗黙の裡《うち》にW氏の意見に影響されつつありし証左としてここに掲ぐるものなり。
[#ここで字下げ終わり]
◆右に関するW氏の意見摘要
余(W氏)は初め、この事件に
前へ
次へ
全235ページ中125ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング