斯様《かよう》に著しい衰弱の色を見せて参りましたのは、何かの凶《わる》い前兆と申せば申されぬ事もないようであります。或《あるい》はこの桐の木が、斯様な思いがけないところに封じ込られたために精神に異状を呈したものではないかとも考えられるのでありますが、しかしその辺の診断は、当教室でもまだ気が付きかねております。……無駄を申上げまして恐れ入りました。
治療場の入口は、東側の病室に近い処に只一つ開いておりまして、便所への通路を兼ておりますが、その入口板戸の横に切り明《あけ》られた小さな、横長い穴から、黒い制服制帽の、人相の悪い巨漢が、御覧の通り朝から晩まで、冷たい眼付で場内を覗いているところを御覧になりますると、この四角い解放治療場の全体が、さながらに緑の波の中に据えられた巨大な魔術の箱みたように感じられましょう。
この魔術の箱の底に敷かれました白い砂が、一面に真青な空の光りを受て、キラキラと輝いております上を、黒い人影が、立ったり、座ったりして動いております。一人……二人……三人……四人……五人……六人……都合十人居ります。
これが正木博士の所謂「脳髄論」から割出された「胎児の夢」の続きである「心理遺伝」の原則に支配されて動いている狂人たちであります。……しかも、これから三時間後……大正十五年十月十九日の正午となりまして、海向うのお台場から、轟然《ごうぜん》たる一発の午砲《ごほう》が響き渡りますと、それを合図にこの十人の狂人たちの中から、思いもかけぬスバラシイ心理遺伝の大惨劇が爆発致しまして、天下の耳目を聳動させると同時に、正木先生を自殺の決心にまで逐《お》い詰める事に相成るのでありますが、その大惨劇の前兆とも申すべき現象は、既に只今から、この解放治療場内にアリアリと顕《あら》われているので御座いますから、よくお眼を止められまして、狂人たちの一挙一動を精細に御観察あらむ事を希望いたします。
そこでその精細な御観察の便宜と致しまして、この十人の狂人たちの一人一人の姿を大写しにして御覧に入れます。
まず、最初に現わしまするは、西側の煉瓦塀《れんがべい》の横で、双肌脱《もろはだぬ》ぎになって、セッセと働いている白髪の老人で御座います。この老人は御覧の通り、両手に一挺の鍬《くわ》を掴んで打振《うちふり》ながら、煉瓦塀に並行した長い畑を二|畝《せ》半ほど耕しておりますが、しかしその体躯《からだ》を見ますと御覧の通り、腕も、脛《すね》も生白くて、ホッソリ致しておりまするのみならず、老齢の労働者に特有の、首筋をめぐる深い皺も見えませぬので、いずれに致しましても、こんな百姓の仕事に経験のある者とは思われませぬ。ことにミジメなのはその掌《てのひら》で、鍬を握っておりますから、よくは見えませぬが、その鍬の柄《え》の処々に、黒い汚染《しみ》がボツボツとコビリ付て見えましょう。あれは、その掌の破れた処からニジミ出している血の痕跡《あと》で御座います。しかも……老人は、それでも屈せず、撓《たゆ》まず、セッセと鍬を打ち振て行くところを見ますと、正木博士の発見にかかる、心理遺伝の実験が、如何に残忍、冷厳なものであるかという事が、あらかた、お解りになるで御座いましょう。
次にあらわしまするはその横に突立《つったっ》て、老人の畠打《はたうち》を見物致しております一人の青年で御座います。お見かけの通り黒っぽい木綿着物に白木綿の古|兵児帯《へこおび》を締《しめ》て、頭髪《あたま》を蓬々《ぼうぼう》とさしておりますから、多少|老《ふ》けて見えるかも知れませぬが、よく御覧になりましたならば、二十歳前後のういういしい若者であることが、おわかりになりましょう。久し振りに日陽《ひなた》に出て来ましたせいか、肌が女のように白く、ホンノリした紅い頬に、何かしらニコニコと微笑を含みながら、鍬を振り廻す白髪の老人の手許を一心に見守っております。その表情だけを見ますと、ちょっと普通人かと思われますが、なおよくお眼を止めて御覧下さい。その眼眸《まなざし》と、瞳の光りの清らかなこと……まるで深窓に育った姫君のように静かに澄み切って見えましょう。これは或る種類の精神病者が、正気に帰る前か、又は発作を起す少し前に、あらわしまする特徴で、正木博士が始終手にかけておられました、真狂《しんきょう》と、偽狂《ぎきょう》の鑑定の中でも特に鑑別し難い眼付なので御座います。
次には今の老人と青年の、遥か背後《うしろ》の方に跼《かが》まっている一人の少女にレンズを近付てみます。お見かけの通り、幽霊みたように青白く瘠せこけたソバカスだらけの顔で、赤茶気た髪を括《くく》り下げに致しておりますが、老人が作りました畠の縁《へり》に跼みまして、繊細《かぼそ》い手で色んなものを植え付ております。桐の落葉、松の
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