常識を超越していないと虫が納まらない性分でね。兎《と》にも角《かく》にも吾輩を一種の狂人と認めている満天下の常識屋諸君に同情するよ。
そこでだ……そこで何から書き初めていいかトント見当が付かないが……何しろ遺言書なぞを書くのは後にも先にも今度が初めてだからね。
併《しか》し、ここいらでチョイト普通人の真似をして、常識的の順序を立てて書く事にすると……まず第一に明かにしなければならぬのは吾輩の自殺の動機であろう。
ソモソモ吾輩の自殺の動機というものは一人の可憐な少女に関聯している……という事が断言出来る……エヘン。笑っちゃいけない。
そもそもその少女の美しい事といったら迚《とて》も迚も迚も迚もと二三十行書いて止めておいた方が早わかりする位だ。世界中のハンケチの上箱《うわばこ》、化粧品のレッテル、婦人雑誌の表紙、衣裳屋の広告人形、ビール店、百貨店のポスターなんどの在らん限りを引っぱり出して来ても……欧米のキネマ撮影所を全部引っくり返して来ても、こんなに勿体《もったい》ないほど清らかな、痛々しいほど匂やかな、気味の悪いほどウイウイしい……アハハハハハ。これ位にしておこう。年甲斐もなくソンナ別嬪《べっぴん》に肱《ひじ》鉄砲を喰って、この世をダアと観じたな……なぞと感違いされては困るから……。そんな御心配はコッチから願い下げで御座る。何を隠そう、その少女は今から半年ばかり前に、人間の戸籍から削《けず》られているのだから……。
そんならその少女が死んだためにこの世を果敢《はか》なんで……なぞと又、早飲込みをする常識屋が出て来るかも知れないが一寸《ちょっと》待ったり……慌ててはいけない。現在、死人の戸籍に這入っているその少女は、近いうちに自分のシャン振りと負けず劣らずの、ステキ滅法界《めっぽうかい》もない玉の如き美少年と、偕老同穴《かいろうどうけつ》の契《ちぎり》を結ぶ事になっているのだ。そこで吾輩のこの世に於ける用事もハイチャイを告る事になるのだ……と云ったら又、頭のいい痴呆患者が出て来て……そんならイヨイヨ発狂自殺だ。おおかた死んだ美少女と、生《いき》た美少年のラブシーンを夢に見るか何かして、気が変になったのだろう……何かと考えるかも知れない。
……どうも驚いたな。遺言書なんてものはコンナ書きにくい、自烈度《じれった》いものとは知らなかった。しかしそれでも折角《せっかく》自殺するのだから、何とか書いておかないと、アトで張合がないだろうと思って、お負《まけ》のつもりで書く訳だが、何を隠そう、その鬼籍に入った美少女とピンピン生きている美少年とが、現実に接吻、抱擁する事に依て、吾輩が畢生《ひっせい》の研究事業である精神科学の根本原理……即ち心理遺伝と名づくる研究発表の結論となるべき実験が、芽出度《めでた》し芽出度しになる手筈になっているのだ。
どうだい。コンナ面白い、痛快な学術実験が、又とほかに在りますかい。アハハハ……。
イヤ。恐らく無い筈だ。……というのは第一に、この実験の基礎となっている精神科学という学問が、吾輩独特の新規新発明に属するものなんだから……のみならずその中でも亦、吾輩専売の精神病学の実験というのが、普通の医学や何かのソレと違って、鳥や獣《けもの》や、人間の屍体なぞを相手に研究は出来ない。何故かというと鳥や獣は、或る種の精神病患者と同様、最初から動物性の丸出しで研究材料に不適当だし、死んだ人間には肝腎の実験材料になる魂が無い。必ずやピンピン溌溂たる人間の、正しい、健康な精神を材料に使わねばならぬ。そんな立派な精神が、突然に発狂して、やがて又、次第次第に回復して行く……その前後の移り変りをコクメイに研究して、記録して行かなければならないのだから大変である。ことに吾輩が研究の主題《テーマ》として選んだ材料を、今の学者の流儀で名付けると、遺伝性、殺人妄想狂、早発性痴呆、兼、変態性慾とも名付くべき、世にもややこしい代物《しろもの》と来ているんだから厄介この上もない。
そんな実験の材料として選まれる人物はトテモ生やさしい御方ではない。ウッカリするとこっちがギューとやられるかも知れないのだから、吾輩は冒頭《のっけ》から生命《いのち》がけで、この実験に取りかかったものだが、とうとうその実験の煽《あお》りを喰って、自分自身が、自殺にまで追い詰められる事になって……イヤ。まだ自殺までには大分時間があるから、充分、十二分に落ち付いて、紫の煙と、琥珀《こはく》色の液体を相手に悠々と万年筆を揮《ふる》う事にする。
諸君もユックリ読んでくれ給え。遺言とか何とかいったって気楽なもんだ。ナマンダ式やアーメン式、又は無念残念式とはネタが違う。キチガイ博士のキチガイ実験の余興みたいなもんだ。残る煙がお笑いの種明しだ。……吾輩の研究の中心と
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