が氷の如く透過する。或は風のために無辺際の虚空に吹き散らされ、又は雨のために無間《むげん》の奈落《ならく》に打落される。こうして想像も及ばぬ恐怖と苦悩の世界に生死も知らず飜弄されながら……ああどうかしてモット頑丈な姿になりたい。寒さにも熱さにも堪えられる身体《からだ》になりたい……と身も世もあられず悶《もだ》え戦《おのの》いているうちに、その細胞は次第に分裂増大して、やがてその次の人間の先祖である魚の形になる。即ち暑さ寒さを凌《しの》ぎ得る皮肌、鱗《うろこ》、泳ぎ廻る鰭《ひれ》や尻尾《しっぽ》、口や眼の玉、物を判断する神経なぞが残らず備わった、驚くべき進歩した姿になる。……ああ有難い、これなら申分《もうしぶん》はない。俺みたような気の利いた生物はいまい……と大得意になって波打際を散歩していると、コワ如何に、自分の身体の何千倍もある章魚《たこ》入道が、天を蔽《おお》うばかりの巨大な手を拡げて追い迫って来る。……ワッ――助けてくれ……と海藻の森に逃込んで、息を殺しているうちにヤット助かる。そこでホッと安心してソロソロ頭を持上げようとすると、今度は、思いもかけぬ鼻の先に、前の章魚よりも何十層倍大きな海蠍《うみさそり》の鋏《はさみ》が詰め寄って来る。スワ又一大事と身を飜えして逃げようとすると背中から雲かと思われる三葉虫が蔽いかかる。横の方からイソギンチャクが毒槍を閃《ひら》めかす。その間を生命《いのち》からがら逃出して、小石の下に潜り込むと……ブルブル。ああ驚いた。情ない事だ。コンナ調子では未だ安心して生きておられない。一緒に進化して来た生物仲間は物騒だというので、自分の身体を固い殻で包んだり、岩の間から手足だけ出したりしているが、自分はあんな事までしてこの暗い、重苦しい水の中に辛棒しているのは厭《いや》だ。それよりも早く陸《おか》に上りたい。あの軽い、明るい空気の中で自由に、伸び伸びと跳廻《はねまわ》られる身体になりたい……と一所懸命に祈っているとその御蔭で、小さな三つ眼の蜥蜴《とかげ》みたようなものになってチョロチョロと陸《おか》の上に匍《は》い上る事が出来た。
……ヤレ嬉しや。ありがたや……とキョロキョロチョロチョロと駈けまわる間もなく、今度は世界が消え失せるばかりの大地震、大噴火、大海嘯《おおつなみ》が四方八方から渦巻き起る。海は湯のように沸き返って逃込む処もない。焼けた砂の上で息も絶え絶えに跳ねまわっているその息苦しさ。セツナサ……その苦しみをヤッと通り越したと思うと今度は、山のような歩竜《イグアノドン》の趾《あし》の下になる。飛竜《プラテノドン》[#ルビの「プラテノドン」はママ]の翼に跳ね飛ばされる。始祖鳥《アルケオフェリクス》の妖怪然たる嘴《くちばし》にかけられそうになる。……アアたまらない。やり切れない。一緒に進化して来た連中は、身体中に刺《とげ》を生やしたり、近まわりの者に色や形を似通わせたり、甲羅《こうら》を被《かぶ》ったり毒を吹いたりしているが、あんな片輪《かたわ》じみた、卑怯な、意久地《いくじ》のない真似をしなくとも、もっと正しい、囚《とら》われない、温柔《おとな》しい姿のまんまで、この地獄の中に落付いていられる工夫はないか知らんと……石の間に潜んで、息を殺して念じ詰ていると、頭の上の顱頂孔《ヒクメキ》の処に在る眼玉が一つ消え失せて、二つ眼の猿の形に出世して、樹から樹へ飛び渡れるようになった。
……サア占《し》めたぞ。モウ大丈夫だぞ。俺ぐらい自由自在な、進歩した姿の生物はいまいと、木の空から小手を翳《かざ》していると、思いもかけぬ背後《うしろ》から蟒蛇《うわばみ》が呑みに来ている。ビックリ仰天して逃出すと、頭の上から大鷲が蹴落しに来る。枝の間を伝《つたわ》って逃げ了《おお》せたと思うと、今度は身体《からだ》中に蝨《だに》がウジャウジャとタカリ初める。山蛭《やまひる》が吸付きに来る。寝ても醒ても油断が出来ない中《うち》に、やがて天地も覆《くつがえ》る大雷雨、大|颶風《ぐふう》、大氷雪が落《おち》かかって、樹も草もメチャメチャになった地上を、死ぬ程、狂いまわらせられる。……ああ……セツナイ。堪《たま》らない。自分は何も悪い事はしないのに、どうしてコンナに非道《ひど》い目にばかり遭うのであろう。どうかしてモット豪《えら》い者になって、コンナ災難を平気で見ておられる身体になりますように……と木の空洞《うつろ》に頭を突込んで、胸をドキドキさせながら祈っていると、ようようの事で尻尾《しっぽ》が落ちて、人間の姿になる事が出来た。
……ヤレ嬉しや。有難や。これから愈々《いよいよ》極楽生活が出来るのかと思っていると、どうしてどうして、夢はまだお終《しま》いになっていない。人間の姿になると直ぐに又、人間としての悪夢を見初める
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